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シュレーディンガーの猫

14
 幸せだった。
 でも、それがどんなものか、もう忘れた。
 
 ずっと、幸せだと思っていた。たとえ、父親がいなくても、やさしい母と祖父母に囲まれて。無邪気に笑えることを、疑ってなんていなかった五歳の頃。
 父親は、死んだと聞いていた。何度か父の話を聞こうとするたびに、母親の顔が歪むのが分かってからは、聞くこともなかった。
 幸せだったから。
 温かかったから。
 それが、暑い夏の日――
 見知らぬ男が二人、家にやってきた。暑くて暑くて、扇風機の風さえ生温かった。それでも母の仕事の夏休みで、皆が家にいるのが嬉しかった。どこにもいけなくても、みんなで西瓜を食べられることだけで、はしゃいだ。
 そこに現れた、二人の男。
 気付いたときには、真っ白な世界だった。
 天井も、壁も、触れる布団も、みんな。
 そこに、すこしずつ赤い染みが広がった。幻なのに赤すぎる、染み。目を閉じても、それは流れることを止めない。
 そうだ。
 母も祖父も祖母も、こんな風に真っ赤な血を流しながら、真っ白になっていったのだ。
 放り出した手に触れたその血が、生温かったのを覚えている。
 ――覚えている。
 忘れたくないことを忘れて、思い出しては吐き気がするようなことを、覚えている。幸せより、温かさより、恐怖の方が強く、憎しみの方が残る。
 そして、いまだに消えない傷跡は、忘れるなとときどき疼いた。

 あのとき、死んでしまえばよかったと何度か思ったことがある。でも、助けてくれた警察官だった養父に、感謝をしなかったことはない。
 内密に、ごく内密に、幼い命は救われた。そして見知らぬ小さな田舎の孤児院で、その命は細々と息づき始めた。
 事件から、数年経ったら迎えに来ようと養父の坂倉は言った。でも、その約束は果たされないまま、坂倉は殉職する。
 希望とか、幸せとか、そんな言葉が遠かった。
 坂倉が頭を撫でてくれた感触は、そう長くは持たなかった。強烈な、生温い血の感触と、赤い海の中に、それは溶けて消えた。
 何度も、何度も、夢の中にさえ現れて。生臭い、血の匂いまでも漂っているようだった。
 坂倉の幼い日々の記憶は、そればかりだった。思い出そうとすると浮かぶのは、流れる血。
 中学に上がって、自立し始めた坂倉は、高校入学と共に施設を出た。それからずっと、あの夏のことを調べつづけた。
 大学で能瀬と会ったのは、それがきっかけだった。一緒になって、坂倉とその事件のことを調べたのだ。
 硬い殻の中、見つけたのは「都住」と言う名前。
 父親と言う、言葉。
 殻が硬いのは、中身が弱いからだ。
 放っておけばよかったのだ。
 母親も、その息子も、ただ慎ましく暮らしていたのだから。
 何を恐れたのか。
 あまりに弱いその男は、何を怖がったのだ?
 ――ただ、幸せだった。
 母と、祖父母と、自分と。
 他に、何も望んでなどいなかった。


「俺は、ただ都住に恐怖を味わわせたかった。何かを、なくすこととか」
 雨は、降り止まない。でも、耳を澄ませなければ聞こえないほど、微かな雨だった。ぼんやりとした光を背後から受けて、小雪はベッドの傍らに座り込んでいた。
「それで、娘を誘拐することを考えた。ところが、失敗したんだよ。都住には娘そっくりの息子がいた」
「それがあの子?」
「そう」
 坂倉は、ふと視線を外へ向けた。あの頃、響貴がしていたように。
 ――都住が、死んだ。
「響貴は、姉そっくりに成長して、身代わりをときどきしていたらしい。それで、俺が間違って誘拐した」
 小雪が、そっと布団の端をなぞる。
「弟……?」
「あぁ、たぶん」
 自分と、響貴が血が繋がっているのか、坂倉には分からない。でも、きっとそうだろうと言う、根拠のない確信があった。
 たぶん、それは、似ているから。
「あいつは知らないよ。俺のことは何も知らない」
 ずっと、恨むことで生きてきた。二人、とも。
「小雪も忘れた方がいい。響貴のことも、あの夜のことも」
「この怪我、それが原因なのね」
「あぁ……」
 そう言えば、佐々原はどうしたのだろう。火事で焼けたのは、本当に都住一人なのだろうか。
 ――響貴は、どうしているのだろう。
 憎むべき相手がいなくなって、坂倉はたぶん、動揺していた。どう生きたらいいのか、わからなくて。
 同じはずだ。響貴だって、同じだろう。
 傍らにいたら。二人で、手を握れたなら。
 どうやって、生きていこう。
 小雪や、能瀬がいるだけでは足りない何かを、どうやって埋めていこう。
 消化し切れなかった憎しみと。
 飢えたように求めるものと。
 どちらも、なくした。

 坂倉が、響になりすました響貴の隠し撮りの写真を見たのは、それから数日経ってからのことだった。
 響貴だった。
 どれだけ姉の振りをしていても、坂倉にはすぐに分かった。目が映っていれば、わかる。その目で、わかるのだ。深く、深海の奥底に漂う瞳。
 その目が、自分を見つめていた。
 自分を映しているように、錯覚した。


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