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シュレーディンガーの猫

15
 坂倉が黙々とトレーニングを積むことに、能瀬も小雪も何も言わなかった。起き上がれるようになった頃には、能瀬の手配した家政婦も、小雪の訪問も、断るようになった。
 そして、雪が降りしきる冬の日に、坂倉は姿を消した。
「きれいさっぱり、だな」
 がらんと空になった部屋の中、能瀬が呟くと、その声さえも響くようだった。その口から吐き出される紫煙が、広い空間に漂う。
 きれいさっぱり、と言う言葉は、本当はおかしい。もともと、この部屋にはたいした物はなかったのだ。以前の、坂倉の部屋のように。まるでそこは、帰るところではないと言うように、自分のものを置かないのは、坂倉の習慣のようなものだった。
「……」
 小雪は何も言わずに、壁に寄りかかった。
 一晩中降った雪は、坂倉の足跡さえ綺麗に消し去っていた。最初から、誰もいなかったかのような、部屋。
「煙草、貰える?」
 小雪のその言葉に、能瀬が意外そうに片眉を上げた。
「やめてずいぶん経つんだけど、なんだか吸いたいの」
 言いながら、差し出された煙草を細い指で支えて、火を貰う。それから大きく、紫煙を吐き出した。それを片目で見ていた能瀬が、ぽつりと呟く。
「馬鹿な奴」
「そうね」
 優しすぎて、不器用で。いつだって、助けようとしているのに。
「都住響貴に、会ったことあるんだろう?」
「あるわよ。それどころか抱かれたわ」
「え?」
 坂倉が怪我をした後知り合った二人は、互いの素性をあまり知らない。でも、小雪が坂倉のセックスフレンドだと言う話は、能瀬は聞いていた。
「まさか……」
「そう、三人で」
 小雪がまた、大きく紫煙を吐き出す。
 あのときの恐ろしい暗さを思い出した。救いようのないような、闇。
「私、わからない」
「何が?」
「二人が出会ったことが、幸せなのか。二人で生きていくことが、幸せなのか」
 小雪の手の中の煙草から、ぽろりと、灰が落ちた。綺麗な床の上、二人は気にもせずに煙草を吸っている。
「……坂倉は、幸せを探しているわけじゃないさ」
「じゃぁ、どうして?」
 また、危険な目に遭うかもしれないのに。こんな風に、平穏な生活を捨てて、会社まで辞めて――。
「さぁ、俺にも分からん」
 幸せよりもっと先のこと。生きていくこと。
 見失った、その意味を。
 でもそこに、本当に答えがあるのか?

 月に一度の割合で、響貴は外に出ることがある。それはたいがい、佐々原との食事だったり、他の重役に見せるためのパフォーマンス的要素の強いものだったりする。でも、少しずつ変わりつつある声が、どうにもならない。だから、ショックで口がきけないと言う佐々原のでまかせが、今でも有効だった。
 少し、人嫌い気味に笑ってみせる。それだけで、響貴は自分の役割を果たしていた。見知った顔もあって、響貴がほんの少し違う反応を示すことで、彼らが響貴を疑うことはなかった。
 本当は、誰一人として、都住響のことなど見ていないのだろう。大切なのは、都住孝治の一人娘だと言うことだけだったのだ。
 ――都住響でさえ、ある必要がない。
 姉が死んだことで、今更そんなことがわかる。誰でもいいのだ。誰でも。利用できるなら、どんな形でも利用するだろう。都住孝治がそうであったように。今出会う、どんな人も。
 ――誰も、自分のことなど見てはいない。
 どれくらい。あと、どれくらいこんなことを繰り返すのだろう。
 外に出るたびに、そんなことを思った。
 あの部屋から唯一出られる機会は、自分が利用価値のある、都住響であることを確認するためのものだ。
 ずっと、こんな風に生きていくことなど出来ない。
 いつか、堪えられなくなるだろう。身体か、心か。どちらが先かは分からない。
 でも、いつか。そう遠くない、いつか。
「どうぞ」
 差し出された飲み物を断ろうとして、響貴の手が止まる。そのまま、震えそうになる手で、そのグラスを取った。じっと、見つめる。間違いなく、自分に渡されたそのグラス。
 思い切ったように顔を上げたときには、もう誰もいなかった。
 違うかもしれない。
 ただの偶然かもしれない。でも――
 受け取ったグラスに、少しだけ口をつける。琥珀色の、美しい液体。一度だけ、好きだといったことがある。最近、美味しくなってきた気がすると。なにかひどく、幸せなときに。
 今の響貴に、ウイスキーをストレートで渡す人間がいるはずがない。それも、ほんの少し。
 佐々原でさえ、知らない。
 舐めるようにしか呑めずに、でもそれが美味しいと響貴が言ったこと。だからグラスに少しだけ、注いでくれればいいのだと。
 そんなはずはない。
 ここに、いるなんて。
 ――坂倉が、いるなんて。


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