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椿古道具屋 第二話

少年の神さま 12


 水穂神社の階段が何段あるのか、史朗は知らない。ただ、何も考えたくないときに、つい数えて登る癖がある。と言っても、結局は途中で別のことに気が囚われてしまうため、最後まで数えきったことはない。
 今日も、三十二段目まで数えたところで、史朗はふと立ち止まって神社の鳥居を見上げた。ここまで来て、行くべきか行かない方がいいのか、悩んでしまう。
 神様たちは、放っておいても大丈夫だと言った。だが、史朗は凪と最後に別れた時の、あの顔が忘れられなかった。ひどく辛そうで、でも自分を決して見てくれなかった、あの横顔。神様へのお礼の件だけではなく、本当にあのとき、凪を一人で帰してしまって良かったのか、史朗は昨日からずっと気になっていた。
 ああ言う顔を、前にも見たことがある。たぶん、中学生になってからのことだ。家が近いという理由だけで、二人は良く一緒に通学していた。それは習慣にも似たもので、クラスや部活が違くとも、なんとなく続いていた。あるときから、その通学途中に凪がときどき見せるようになったのが、あんな風な辛そうな横顔だった。それからしばらくして、朝練があるから一緒に行けない、と突き放されるように言われて、ショックを受けたからよく覚えている。
 なんだかんだ言っても、楽しいと思っていたんだよな――。
 史朗が大げさな身振り手振りで話すのを、凪はいつも静かに笑って見ていた。ときには、馬鹿だなあと呆れたように言われながら、それでも学校では見せない笑い顔を見るのが、好きだった。
 思えば、あの頃から、二人はどんどん疎遠になっていった。朝も顔を合わせなくなると、学校でも話しかけづらくなった。そもそも、凪がなんとなく自分を避けているような気がして、声を掛けられなかった。あのとき、淋しさを感じたことは覚えている。
 だから、千織の事件で以前のように話をするようになったとき、嬉しかった。また戻りたくはない。
 ――そうだ。また噂を聞くだけなんて嫌だ。
 史朗は再び、階段を登りはじめた。


「申し訳ないね。天照大神と言うにはごついけど、宥めてもすかしても出てこない」
 肩を竦めて苦笑しているのは、凪の父親だ。部屋に明かりがついているのはわかっている。史朗がいつものごとく小さな石を投げても、その窓は開くことがなく、ため息を吐いたところで、声をかけられたのだった。見てくるよ、と言われて一縷の望みを託したのだが、父親にも何も答えなかったらしい。
 そもそも、今日は学校も休んだとのことだった。
「こういうときは、何をしても無駄だよ。放っておいた方がいい」
 神鳥のおじさん――神鳥久和(かんどり・きゅうわ)はそういいながら、コーヒーを出してくれた。凪の家に来ると良くでてきた、懐かしいカフェオレだった。わざわざ豆を挽いておとしてくれるコーヒーは、いつでも香りがよく美味しい。
「史朗君の名前を出しても駄目なんだから、何をしても駄目だな」
 少々思いつめたようにカップを睨んでいた史朗に、久和が言う。問いかけるような目を向ければ、にっこりと笑みを返された。
「羊羹、焼肉、史朗君。昔から、凪の機嫌を直すにはこの三つ、って言われてる」
「誰が言ってるんですか」
「ん? 私と元妻がね」
 さらりと言ってのけて、コーヒーを啜る。「妻に関しては、言っていた、が正しいかな」と訂正までしてくれた。
 そう言えば、凪は羊羹が好きだった。肉も好きで、良く取り合った。でも、そこに自分の名前が入っているのは、良く分からない。
「まあでも、今日は機嫌が悪いのとは違うのかな。どちらかと言うと、防衛本能だね」
 久和は神主らしいと言うのか、良く分からないことをときどき言う。
「防衛本能って、どういうことですか?」
「うーん、あの子はね、大事なものには近づかないんだよ。失くすのが怖いんだろうね。大切なものほど、自分から離れていく。どうしてああなっちゃったんだろうなあ。欲がないというより、臆病なのかと思うと不憫だよ。あの子から大事な母親を奪った俺が言うことじゃないけどね」
 しんみりとした空気が流れた。史朗はカフェオレをこくりと飲む。
「だからあの子は、私にも近づかないだろう? 天の邪鬼と言えば天の邪鬼。大事なものには近づかないんだ」
 全くなあ、と久和は先ほどまでのしんみりした空気と打って変わって、朗らかに笑った。「私のことが好きで仕方がないんだよ」と、凪が聞いたら怒りだしそうなことを言う。
 神鳥親子の関係は、史朗には良く分からない。口ではいつも、凪は父親のことを敵視するようなことを言う。だが、父親を嫌っているのかと考えると、わからない、としか言えない。
 とりあえず、もう少し待ってあげてくれないか、と久和が言う。史朗は二階の凪の部屋を見上げながら、頷くしかなかった。


 傘を畳んでがらっと戸を開けた途端、「おや、雨が降ってるね」「早く戸を閉めて頂戴!湿気はお肌の大敵なのよ!」「あら、漆塗りでもない木肌の姉さんには大して問題ないでしょうに」と神様たちの賑やかな声が聞こえてきて、史朗は知らずため息を吐いた。そして、その声を無視して奥の部屋まで行き、畳の上にごろりと横になった。
 久しぶりの雨だった。雨脚はそれほど強くなく、朝からしとしとと静かに降り続けていた。自転車で出かけるには鬱陶しい天気で、いつもなら母親に尻をたたかれなければ椿屋に来なかっただろう。だが今日は、史朗は昼食を済ませるとすぐに、バスに乗って椿屋まで来た。
 ――来てないかあ。
 神様たちの遠慮がないときは、凪がいないときだ。逆に首をかしげるほど静かな時は、凪がいる。もしかしたら――そう淡い期待を持ってきたのだが、期待は裏切られたらしい。と言っても、その期待に根拠なんてものはなかった。
 ただ、この間会いに行ったのに会えなかったから、もしかしたら……と思ったのだ。
「なんだ、しけた面してんなあ」
 市松が酒壺を手にふらりとやってきた。横になったままの史朗の隣に、どかりと座る。飲むか、と言われて頷きそうになったが、「しろ、お茶ー」と便利水様たちがお茶を零しそうになりながら持ってきてくれたものだから、とりあえずそっちを先に貰うことにした。
「ん? 水穂の兄ぃがいねえから淋しいか」
「別に、そういうわけじゃない」
 嘯いてみるが、自然と唇を噛んでしまう。史朗は上半身だけ起き上がってお茶を飲もうとした。だが、便利水様たちに「しろ、お行儀悪い!」「悪い!」と非難をされ、仕方なく起き上がる。
「一度、来たけどな」
「え?」
「水穂の兄ぃだよ。いつだったかな、三日前か?」
 市松が首を傾げると、その太ももに手を置いて、便利水様たちが身を乗り出して同じように首を傾げた。
「四日前?」
「五日前?」
「六日前?」
 市松が「うるせえよ」とその頭を軽く叩く。すると、便利水様たちは「五日前ー」と声を揃えて笑いながら店に戻って行った。
「五日前か……」
 神馴らしをしてから、二日後のことだ。その前日には、史朗は凪に会いに行き、拒否されている。
「まあでも、誰かが鍵を開けてやったが、入ってこなかった」
 とぷり、と音をさせて市松は酒を呷る。それからふっと笑って、「人間ってのはめんどくせえよなあ」と言う。
 なんだよ、と史朗が文句を言おうとしたところで、「ごめんください」と少々遠慮がちな声が聞こえてきた。
 史朗が恐る恐る顔を出すと、手嶋がいた。隣には、手をつないだ亮一もいた。
「手嶋さん、どうしたんですか?」
 どうぞ、と中に入るように促すと、ぺこりと頭をさげて、肩身が狭そうな様子で奥まで入ってきた。史朗が二人に座る様に言ってから台所に行けば、いつものようにお茶が用意されていた。どこから持ってきたのか、亮一のためのオレンジジュースもある。
「突然お邪魔してすみません」
 手嶋はそう頭をさげた。亮一は、ぎゅっとその父親の洋服を握っている。そして、その手にはあの人形を持っていた。
「いえ、そんな……俺も亮一くんたちのこと、気になってたんで」
 どうぞ、とお茶とジュースを差し出すと、手嶋が礼を言う。それから、隣の亮一を見る。亮一は父親の視線を受けて、ぺこりと頭をさげた。
「すみません。あれから喋るようにはなったのですが、まだすぐに言葉は出てこないみたいで……」
 喋るようになった、というだけで史朗はほっとした。良かった、と心から思う。
「本当に、椿屋さんたちにはなんとお礼を言ったらいいか……。藍子も、あの後少しずつ回復して行っています。医者も首を捻るほどで、後は寝たきりだったことで失った体力を戻せばいい、と言われました」
 手嶋は心底ほっとしているようだった。ただ、疲れ切った顔をしている。
「彼女の体力が回復したら、やはり別れようと思います。……会社の子とも、別れました。しばらくは、とにかくこの子と二人で暮らしていこうと思います」
 手嶋の手が、ゆっくりと亮一の頭を撫でる。亮一は、その父親を見上げ――小さく笑ったように見えた。
 ああ、もう大丈夫だ――。史朗はそう思って、自分も小さく笑った。亮一は、その史朗をじっと見つめていた。訴えかけるような目だったが、焦燥感はない。こちらも余裕を持って、どうしたの? と聞くことができる、そんな目だった。
 亮一は、そっと手に持っていた人形を机の上に置いた。そしてそれを、ゆっくり史朗に押し出した。
「亮一くん……?」
 まるで「あげる」とでも言われたようで、訝しげな声で問いかけると「ああ、そのことで今日はお邪魔したんでした」と手嶋が言う。
「人形のことで……?」
「はい。しばらく……というか、あの、預かっていただけないかと思いまして」
 預かってというのも変か、と一人ぶつぶつ言っている。
「え? どういう意味ですか?」
「俺たちの仲間に入れろってことだろ」
 ふいに見猿の声が聞こえてきて、史朗は思わず声を上げるところだった。いつの間にか、三猿が机の上に乗っている。もちろん手嶋には見えていないが、亮一は何か感づいているようだ。
「このガキは、俺たちのことは見えちゃいねえな。この間家に行ったときは見えてた節があるが……」
「人形のやつがいなくなって、必要なくなったんだろ」
 三猿様たちは好き勝手なことを言っている。もちろん、言わ猿は何も言わないが。
「ここの仲間……」
「ええ、そうです、そうです。この骨董の仲間にしてもらえないでしょうか? 」
 史朗の呟きを聞き逃さず、手嶋がそう頷きながら言った。史朗は思わず、困惑した顔で三猿様を見た。
 いいんだろうか、と思う。勝手に、ここの仲間になんかしていいのだろうか。
「仲間も何も、こいつはまだ俺たちの域には届いちゃいねえ。まだ空っぽさ」
 聞か猿様が、そう肩を竦めた。そっと覗き見ている神様たちからも、「空っぽだね」「ほんとだねえ」「ただの人形ですね」との声が聞こえてきた。
「ま、別にいいだろ。空っぽなんだから、ここに置いておけばいい」
 見猿様が「なあ」と神様たちに同意を求める。「いけないって道理はないね」とかんざし様の声がした。
 史朗は、目の前の亮一を見た。亮一にとっては、この人形は心の拠り所とも言えるものだったのではないのか。そう問いかけるように見ると、亮一は真剣な目をして史朗を見返してきた。
「いいの?」
 聞くと、しっかりと頷く。
「お父さんもいるから、僕はもう大丈夫だから」
 拙いながらも、そう言った亮一は、もう父親の服の袖も掴んでいなかった。


 少し焦げたような髪をしている人形は、そっと店内に置かれた。今は、茶箪笥様の中に収まっている。茶箪笥様は良く言えばどっしり構えている方で、かたかたと煩く揺れることもない。ちゃぶ台様に言わせれば、ただ眠っているだけだということではあるが。
 そこに人形を置くことを決めたのは、亮一だった。史朗に差し出しては見たものの、やはり名残惜しそうにしていた亮一を見て、史朗が好きなところに置いていいと言ったのだった。もちろん、神様から多大なブーイングとお叱りを受けたが、亮一が決めた場所については、何も言わなかった。
「ここなら、大丈夫だ」
 史朗は茶箪笥様のガラス戸をそっと閉めた。
 大丈夫だと言ったのは、手嶋親子だった。そう言われたのだ、と手嶋は言った。
 誰に言われたのかと問えば、凪だという。
「あの後、神鳥さんがうちを訪ねて来て……。亮一に、人形にはもう頼れないと言いまして……。それで、亮一はしばらく考えていたんですが、神鳥さんに人形を差し出したんです」
 亮一が何を考えてそうしたのかは、わかりません、と手嶋はほほ笑んだ。
「そうしたら、椿屋に持っていけ、と言うんです。ここなら、この人形も大事にされる、それに、大事にしてくれる人のもとに行く、と」
 史朗は、驚いて「はあ」としか言えなかった。凪がそんなフォローをこの親子にしていたことも驚きだったし、店のことをそんな風に言った、ということにも驚いた。
 人形は今、疲れたような、ほっとしたような顔をして茶箪笥様の中に座っている。
 ――椿屋なら、大丈夫。
 そう言ったという、凪の声が頭の中に響く。ふと外を眺めたが、そこにはもちろん、誰の姿もなかった。

第二話 了

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