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あふれ出る言葉など何の役にも立たない
12
ふうっと小さく吐息を吐いて、右はぼんやりと窓から外を眺めていた。1−Aの教室からは、テニスコートが見える。どこかのクラスが次の体育で使うのか、ふざけながら用意している生徒たちが見えた。
「憂い顔もまた絶品だねー右は」
新がからかうように言って、前の席に坐る。総代になってから、芳明は休み時間でも呼ばれることが多くなっていた。嫌々ながら呼び出しに答える芳明を、クラス中は少し同情して見送る。基一は好奇心でときどきそれにくっついて行くため、今は右は一人のことが多い。なにしろ、あまり話し掛けられる雰囲気ではないこともまた、多かった。
「絶品ってなんだよ」
右がそう笑う。このところ、そんな顔ばかりだな、と新は内心ため息をついた。苦笑、自嘲、微笑、にっこりと笑う、その時々で色々だが、とにかく全部笑っている。芳明にさえそうで、新は自分がしたことは失敗だったか、と後悔していた。あの報道部の記事で、少し右が素直になってくれれば、と思ったのだが。
「何かあった?」
「何が?」
ふわっと笑う、その微笑は儚く綺麗だが、新は胸が衝かれる思いだった。右を良く知らず、遠くから見ているだけだったら、ほうっと見惚れることは出来ただろうけれども。
「だから、何か、だよ」
日本語変だよ、と右が笑う。新は合わせるようにそうか?と笑って見せたが、堪らないな、と思っていた。
「ここのとこ、部屋に帰るの遅いだろ?」
少し声を潜めると、さすがに右も笑顔を消した。それでも、すぐに苦笑する。
「何で滝口がそんなこと知ってんの?」
確か、滝口の部屋は自分の一階下だったはずだ。心配されるのがわかっているから、逃げ込む部屋も滝口のところではない。基一と圭一のところか、娯楽室か、あとは他のクラスメートや委員会仲間のところだ。
「んー、フロアー長の千野先輩がちょっと気にしてて」
そう言えば千野先輩は滝口と同じラグビー部だった、と右は困ったようにため息をつく。
「迷惑かけてるね」
原則、点呼の時には部屋にいなければいけない。ただし、寮内で居場所がわかっていればそれほど咎められない。でも確認のために行き来をするのは、面倒のはずだ。だからなるべくその時間には部屋にはいるようにするのだが、最近は基一と圭一の部屋にいるときは、四階のフロアー長が代わりに点呼をしてくれるという事態にまでなっている。
「いや……まあ、寮内にはいるからいいみたいだけど」
千野は新が親衛隊長をしていることを知っていて、話をしてくれたのだ。どうやら基一たちからも少し大目に見てもらえないかと言われているらしい。上手く説明しきれない後輩達を、それでも何とか信用してくれる先輩には頭が上がらない。
「だからさ、何かあったのかなって」
ホウメイと、と小さく続けると、右が小さく笑った。
「ないよ。何もない」
さばさばとした感じの声に、新は目を眇めた。諦めるのだろうか、と思う。それとも、拒絶されたのか――?
「ホウメイもさ、最近部屋にいないんだよ。総代で忙しいみたいで。だから淋しくって俺も違うところに遊びに行ってんの」
右がまた笑う。それはきっと、半分本当で半分嘘だ。芳明が部屋にいるときは特に、右は部屋にいないことが多い。
何を言ったらいいのかわからないまま、新が口を開こうとしたとき、鐘が鳴った。だからそのまま、何も言えなかった。
九重時間と呼ばれる「猶予五分」ぎりぎりになって、芳明は自分の席に滑り込んだ。もちろん、ドアも極力音を立てないように開けるのだが、先生に気付かれないなんて事はない。苦笑気味の中野に小さく頭を下げて、ドアに一番近い自分の席に坐った。総代が決定してから、何かと呼ばれる芳明の指定席だった。
漏れるため息を、隠すことも出来ない。右のことも気になっているのに、いわゆる「問題児」と言われる由良誠吾の世話を頼まれたのだ。まるで喧嘩を売り歩いているような誠吾に、ここのところずっと振り回されている。それは喧嘩と言うより悪戯に近いのだが、先輩方がいくら寛容でも許せる範囲のものではないことが多い。それも、殊更上級生か教員を狙うのだ。
机の上に出された教科書とノートは、遅れることの多い芳明への右の気遣いだろう。出して置いてやる、と言われたのは一回きりだが、それから芳明が呼ばれるたびに、右はこうして次の授業の用意をしてくれている。
中野の朗々とした声を聞きながら、芳明はもう一度小さくため息をついた。あの夜以来、右は芳明を避けている。というより、二人になるのを避けているのだろう。「ホウメイは何もわかっていない」と言われて、その意味がそれこそわからなかった芳明が、右に真意を聞きたがるのを、阻止するように。
そして、張り付いてしまった笑顔。
むくれてみたり、怒ってみたり、自然な表情をしていた右はどこかに綺麗に消え去り、また笑顔を振り撒くようになってしまった。それが心からの笑顔なら問題はないのだが、そこに全てを隠しているのを芳明はわかっている。だから、本当は右ともじっくり話をしたいのだ。
ぐるぐると考えたまま授業を終えて、芳明はもう一度ため息をついて、誠吾を捕まえるために教室を後にした。ホームルームはさぼりな、と基一に伝える。基一が了解、と片手を挙げて、苦笑した。
好きでやってんじゃない、と芳明は心底疲れたように息を吐いた。今日は部活も出ない覚悟だ。とにかく早くこれを解決しないと、いつまで経っても落ち着かないだろう。やっぱり総代なんて割に合わない、と今更ながら愚痴る。
「こら待て」
教室から飛び出してきた誠吾の襟首を、芳明はまるで猫を捕まえるように、掴んだ。体格はどちらも変わらないが、気迫が違う。その二人を面白そうに、A棟の一年が見ている。ホームルームもまだなのに、ドアがみんな開いているのだ。円形の棟は、その中心がホールのようになっている。だから、そのホール部分で騒ぐと、注目の的なのだ。
「誠吾、生きて帰って来いよ」
などと叫んでいる輩もいる。
その好奇の視線に、頭が痛い、と思いながら、芳明は誠吾をずるずると引きずった。誠吾が苦しいと文句を言えば、だったら自分で歩け、とは言うが、その襟首を離すことはしない。担任が来る前にさっさと帰ろう、と思っている芳明は容赦がない。
右もその二人を見ていた。不機嫌極まりない芳明だが、結局こうして放っておくことが出来ないのはやはり総代に向いているのだろう。
優しいのだ、と思う。それを露ほども見せようとしないし、そんなことを言ったら冗談じゃない、とまた不機嫌になるのだろうが。
「あいつも、なんだかんだ言って、面倒見がいいよな」
誰彼ともなく呟かれた言葉に、右も頷いた。
そうやって連れ去られた誠吾と、連れ去った芳明がまさかいるとは思わずに、右は寮の部屋を開けた。この時間、芳明は普通なら部活に出ている。
「右、そいつ捕まえてっ」
誰もいないと思っていたのに叫ばれて、右は「え?」と顔を上げた。靴を脱ごうとしていたところで、体勢も不安定だった。
「うわっ」
危ない、と思ったときには遅く、目の前に迫った物体に思い切りぶつかった。片足で、それも中腰体勢だった右が自分を支えられるはずもなく、どんっと壁にぶつかってしまう。頭がぶれて、目の前に星が散った。こういうときに、本当にちかちかと星のような瞬きがあるものなのだ、と頭の片隅で思ったのが最後だった。
目を開けたときには、見慣れた天井だというのに、自分がどこにいるのかわからなかった。というより、自分の置かれた状況がわからなかった。
「右?気付いたか」
芳明のほっとしたような声が聞こえて、右は目を瞬かせた。起き上がろうとすると、ずきんっと頭が痛んだ。
「こら、寝てろ。頭打ったんだから」
芳明がそっと身体を支えてくれる。それでようやく、そう言えば何かに吹っ飛ばされたな、と思い出した。
「ごめんっ」
いきなり泣きそうな声が聞こえて、右はびくりと身体を震わせた。
「由良、声がでかい。滝口、悪いけど先生に気付いたって知らせてくれ」
芳明はそっと右の頭に触れたままそう言った。その温かい手に、右はほっと安心する。ばたばたと新が部屋から出て行って、あいつは部活はどうしたんだろう、と右は思う。
「大丈夫か?」
心配そうな目に、思わず微笑んだ。それに芳明も笑って返してくれて、ひどく安心する。
「気持ち悪いとか、吐き気がするとかないか?」
「大丈夫」
右がそう答えたところで、ばたばたと廊下を走る音が聞こえた。新が、先生を追い立てているのがわかる。
「原澤さんもかわいそうに」
芳明がくすくすと笑う。それに右も微笑むと、そっと頭を撫でられた。
それから、保健医の原澤に先刻の芳明と同じような質問をされて、病院に行こうと言われたが、右は大丈夫だと言った。多分、ちょっと寝不足気味だったのもあるのだろう、と自分では思っている。それに、肩からぶつかったために頭をそれほど強打したとは思えなかった。
「でも、何かあったらすぐに言うんだよ?どうせ俺は職員寮にいるから」
そう、右と芳明に念を押して、原澤は寮長達にも話をしてくるから、と出て行った。
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