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満ちてゆく月欠けてゆく月
13
レオーネがフィレンチェに戻ってから、ルカは以前よりずっと精力的に絵を仕上げていった。淋しくて堪らない、その気持ちを紛らわせるためでもあり、早く仕上げてレオーネと共にフィレンチェに戻りたいと思ったからでもあった。レオーネはメディチ家の画家だ。工房を持ったばかりでもあるし、そうそうその地を離れるわけには行かない。
ルチアーノとレオーネの約束を、ルカも聞いていた。
どうしても、ルチアーノのことが気になったのだ。
傍にいられればいいと言った、あの澄んだ目が。
ルカはもう、絵の半分ほどの着色をしていた。ヴェネチアの画家達などはデッサンより色を重視していると言うが、ルカはあくまでもデッサンに重きを置いたフィレンチェの画家だった。それでも、鮮やかな色を壁に塗っていく。
―――他に弟子を取らないで欲しい。そして、待つことを許して欲しい、そう、言われた。
レオーネは、ルチアーノの話をするときには必ず、どこか痛みを持った顔をする。ルカはその度、少しだけ不安になる。
自分とは違う意味で、レオーネにとってルチアーノは大切だと、わかっていても。
そのルチアーノの健気な気持ちに、自分までも負けてしまいそうになるのだ。いつかレオーネが……そう、思ってしまう。
早く、ここに戻ってきて欲しい、とルカは思った。それがどれだけ我侭なことだと知っていても、あの優しい目で見て、温かい腕で抱きしめて欲しかった。
あの二週間は全て幻だったのだと言われても、ルカにはそれを否定するものが何もないような気がした。
「随分熱心だね」
突然声をかけられて、ルカは驚いて筆を落とした。ミケーレの存在に、全く気付かなかったのだ。集中していた所為もあるが、ミケーレは最近、こんな風に足音や気配を消して現れることが多い。
「びっくりした……声をかけてくださいと、いつもお願いしているのに」
集中しているときは一度声をかけたくらいでは応じないルカだ。ミケーレはその非難には何も答えずに、壁面を眺めた。色が入って、絵はますます凄みを増していた。
天国にいる者たちは、一様にかすかに微笑んでいる。その慈悲深く慎み深い笑みは、見るものを確かに安堵させた。
柔らかく、自分が見たこともない笑顔をしたルカを、ミケーレは思い出した。
あの、フィレンチェのバッジオ家の三男、レオーネが傍らにいた、あのときだけの笑顔。それは、彼にしか向けられないのだ。
あれほどの敗北と嫉妬を感じたのは、初めてだった。レオーネが、同じ名家の三男だったことで、幼い頃からライバル視されていたこともある。でも、それよりも、ルカが本当に幸せそうな顔で笑ったのが、ミケーレには悔しかった。
それまでのルカは、儚く淋しげな微笑しか知らないように笑っていたから。
「早く、帰りたい?」
ミケーレは落ちた筆を拾った。それを渡さずに、手の中で弄ぶ。
「え?」
「そんなに―――フィレンチェに戻りたい?」
今は一日中、ルカは絵を描いている。
ミケーレが手を伸ばして、筆を渡す。足場に乗っていたルカも、上から手を伸ばしてその筆を貰おうとした。
その筆が、再びからんと音を立てて落ちた。
「ミケーレ!」
伸ばした腕の手首を握られて、ルカは引っ張られた。片手には絵具を持っていたために、咄嗟に縦棒を掴むことも出来ず、床に落ちる。でも、ミケーレが抱きとめて、二人は床に転がった。
「何をっ」
起き上がろうとして、抱きしめられる。ルカは身を捩った。
「ルカ……どこにも行くな。ここで、絵を描いていて」
ミケーレが震える声で言った。ルカはそれに、動きを止めた。ミケーレ、と呼んだ声はでも、困惑していた。
ミケーレは、遊びだと割り切って自分を抱いている、とルカは思っていた。冗談のように口説くのもまた、その遊びの一環だと信じていたのだ。
ときどきのぞく真剣な眼は、見て見ぬ振りをした。そして、ミケーレもまた、それを誤魔化していた。
「愛して、いるから……」
ミケーレはそう囁いて、ルカを組み伏した。それに慌てて、ルカは抵抗する。
もう、ミケーレに抱かれるわけにはいかないのだ。
ルカが欲しいのは、レオーネの腕だけだから。その、熱だけだから。
「ミケー……レ。やめて、ください」
額に、頬に、瞼に、口付けられる。逸らした顔の耳を、甘噛みされる。それでも、ルカは身を震わせることはなかった。
「どうして?あいつはいない。同じだろう?また、代わりになるってだけだ」
知っていたのだ。わかっていて、ミケーレは自分を抱いたのだ。そう思うと、ルカは哀しくて堪らなかった。そして、そんなことをした自分の罪深さを、改めて思い知らされた。
でも、だからこそ。
もう、同じ罪は犯すべきではない。
「だめ、です。ミケーレ!」
「代わりは、必要だろう?」
ミケーレが、両手首を掴んだまま、真上からルカを見下ろした。それは冷たく、傷ついた瞳だった。
「バッジオ家の当主は、敬虔なキリスト教信者で有名だ。自分の息子が男を抱くと知ったら―――どうするだろうね?それも、可愛い三男坊だ。あそこの次男は亡くなっているし、長男もどうやら病弱らしい。ついこの間も倒れたと言っていた。バッジオ殿は、いまや三男だけが頼りだ。勘当同然で家を出たと聞いていたけれど、今は、どうだろう」
暗い声だった。ルカは大きく目を見開いて、真上の顔を見つめた。場違いなほど柔らかく美しい光が、その背後から降ってくる。
「跡取りの長男は、寝たきりだそうだよ。レオーネは戻ってこない。バッジオ殿は、今や次期当主は三男だが銀行家に向いている彼だと言って憚らない」
―――レオーネは、戻ってこない。
ルカはくっと唇を噛んだ。
彼が約束を違えるはずはない。もうすぐ、約束の二週間が経つ。でも、その間一度も手紙は来なかった。ルカはもう、二度ほど手紙を送っているにも関わらず。
でも、レオーネを信じる。
ルカはそう決めていた。レオーネはきっと、家のことで忙しいのだろう。それならば、自分は待てばいい。そして、絵が完成したら、自分から出向けばいい。
「さっき言っただろう?バッジオ殿は敬虔なキリスト教信者だと。家から離れていた以前ならともかく、今は、とても君と逢瀬を重ねることなんて出来ない」
それでも、自分は―――。
ルカは内心の不安を隠して、ミケーレを睨んでいた。
せめて、手紙で一言言ってくれればいい。そうしたら、自分はいつまでも待つだろう。ミケーレのこんな言葉に、揺れることもなく。
でも、ルカのその思いは、通じなかった。二週間が過ぎても、三週間が経っても、一ヶ月が過ぎても―――レオーネからは、何の連絡もなかった。
レオーネがフィレンチェに戻ったのは、先のミラノでのロドヴィコとの約束を果たすためだった。
ルカに会わせてもらう代わりに、メディチとロドヴィコの繋がりを持たせる。ロレンツォと旧知の仲であるレオーネのことをわかっていての、取り引きだった。
ロドヴィコは、それ以上のことは何も言わなかった。だから、レオーネはロレンツォにそれとなく探りを入れて、上手く二人が会えるセッティングをすれば良かった。
それが。
ようやくロレンツォから色よい返事が貰えそうだという頃、ルカと離れて一週間は過ぎた頃、兄が倒れてしまったのだ。
レオーネのすぐ上の兄は、もう他界している。彼は事故だったが、長兄は病弱な母に似たようで、昔から身体はあまり強くなかった。
ここに来て、ますます弱くなっている。名門銀行家の跡取というだけで、彼にはプレッシャーが大きいのだ。だから、長兄本人ですら、レオーネに跡をと言っていた。もちろん、レオーネは素っ気無くそれを拒否し続けてきたのだが……。
今度ばかりは、レオーネも家に戻らざるを得なかった。戻ったら、もうそこから逃げられないかもしれなくとも。
それでも、レオーネはルカを諦めたわけではなかった。必ず迎えに行くと、手紙を書いたのだ。
その手紙が、ルカの手には渡らないとは知らずに。
「これが、運命なのか……」
レオーネの呟きに、ロレンツォがふと顔を上げた。レオーネが橋渡しをした格好となった、ロドヴィコとの契約を記した書面にサインを入れているときだった。結局、最も得をしたのはロドヴィコだったということだ。
あのとき、ルカに会って得たものは大きかった。理由を聞かずに、取り引きだけでルカに会うことを許してくれたロドヴィコに、感謝もした。でも―――あの二週間は、幻となった。
「運命とは……また似合わぬ言葉を吐くものだな」
ロレンツォが面白そうに口元を歪ませた。でも、目は鋭くレオーネを見ていた。
銀行家として生きていくことを覚悟したレオーネは、周囲が驚くほど、その資質を発揮した。冷静で、ときにはあざとい取り引きもする。怜悧な判断は、ロレンツォでさえ、身を震わせることがあった。
友人としての立場から言えば、それがいいことだとロレンツォには言えなかった。ジュリアーノなどは、あからさまに批判している。
確かに、レオーネは快活で、どこか憎めないところが皆を惹きつけていた。それを完全に取り払う形になったのは、惜しいと思う。それは、決して兄のことだけが原因ではないだろう。一月ぐらいは、彼もその朗らかさを失っていなかったのだ。だが、日増しにその顔から表情がなくなり―――三月も経った今は、冷たく厳しい表情しか見せなくなっていた。
「似合わないか?俺ほど、それを呪ったものなどないかも知れぬのに……」
「呪う?大層な言葉だな。そんなものには翻弄されぬのが、おまえだろう」
ロレンツォは笑いながら、近くの蝋燭の火で、赤い蝋を温めて書面に封をした。たらりと垂れた蝋の上に、刻印を押し付ける。
「翻弄されていると思ったほうが良いこともある」
レオーネはすっと書面を取り上げた。
ルカはまだ、ミラノにいるという。何度か送った手紙で、レオーネは事情を記した。そして、出来れば出向けない自分の代わりに、ルカからフィレンチェを訪ねて欲しいと、願いも書いた。でも、ルカからは何の返事もなく、そして、絵は描きあがったというのに、帰ってくる気配もない。それが答えなのだと、レオーネは思うしかなかった。
実際、ミラノ公に抱えられるかもしれない、という話も出てきていた。
この書面を持って、ミラノに行くこともできる。でも、処々のことに忙殺された二ヶ月の間に、レオーネはルカの答えを確実にすることが、怖くなっていた。
今更、どんな顔をして会ったらいいというのだろう。
手紙に一言の返答もないというのに、未練がましく会いたいと言うことなど、出来るはずがない。答えなど、決まっているのだから。
ロドヴィコとの取り引きも、そのタイミングで兄が倒れたことも、そしてその後に忙殺されてミラノに赴けなかったことも―――全てが運命なのだと言ってしまった方が、レオーネには楽だった。
ルカがもう、自分を必要ないと切り捨てたのだと思うよりも。
「翻弄されていると思っているうちは―――見えぬこともあるかも知れぬぞ」
ロレンツォが静かに言った。レオーネはそれに、「見えぬほうが幸せかもしれないだろう」と答えた。
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