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シュレーディンガーの猫

16
 響貴はずっと、グラスを握り締めていた。視線を泳がせることを、止めることが出来ない。無意識のように、探している。
「どうかしましたか」
 佐々原に聞かれて、どきりとしながら小さく首を振る。人ごみを難なく避けて給仕をするボーイは、誰も同じに見えた。
 でも、いるはずだ。きっと、さっきのウイスキーは坂倉だ。
 ――どこにいる。
 叫んで、飛びつきたいくらいだった。ただとにかく、坂倉の目に映っている自分を、確かめたかった。そうしたらきっと、自分が誰なのかわかるだろう。
 ほんの少しのウイスキーは、坂倉が自分を響貴だと分かった証拠だ。都住響ではなく、都住響貴だと。
「ご気分が優れませんか?そろそろご帰宅なされた方がよろしいかもしれませんね」
 佐々原は、きっと不審な目をしているだろう。だから響貴は、立ち上がらないわけにはいかなかった。
 でも、その視線の先。佐々原の、肩越し。
 思わず、声が出そうになるのを、やっとのことで堪えた。
 手が、差し出されていた。
 じっと見つめられたまま、届かない距離で、欲しかった手が。
 伸ばしても、触れられない。でも、その手は、そこから動くことはない。
 自分が動かなければ、いけない。自分で踏み出さなければ。
 ざわめきが遠い。時間がゆっくりと流れているような錯覚に陥って、響貴はそっと息を吸った。それからゆらりと揺れるように、足を踏み出す。
 ――逃げられない。
 ――逃げられない。
 ――ここからは、逃げられない。自分からは、逃げられない。
 自分が、踏み出さなければ。
 走り出したのは、きっと二人同時。
 響貴の視線は坂倉だけに注がれて、追い駆けていた。うす黄色い明かりの中で、はっきりとその顔を見る。
 坂倉だ。
 少し痩せてはいたけれど、それは間違いなく坂倉で。坂倉が響貴を間違えずにわかったのと同じように、響貴にもそれが坂倉だとわかった。
 呆気に取られたような人々の間を縫って、二人は駆けた。会場を抜けると、坂倉が正面玄関とは違う方向に駆けていく。響貴もそれに従って、無言で走った。スカートが邪魔だ。長い髪も、今日は垂らしたままだから、視界を塞いだ。それでも、響貴は走りつづけた。
 本当は、言いたいことはたくさんある。すぐにでも触れて、自分の名を呼んで欲しい。
 遠ざかりそうになる背中は、振り向きもしない。自分が追い駆けなければ、必死にならなければ、どんどん遠ざかっていくだけの背中。でもそれを、自分の足で追い駆けることができるのは、なんて幸せなことだろう。
 あの伸ばされた手を、掴まなくてはいけない。
 裏口から出てすぐ、止めてあった車に乗り込んで、響貴がドアを閉めるか閉めないかのうちに、黒い車は走り出した。助手席で、響貴は言葉を発することも出来ずに荒い息を繰り返していた。ただ、視線だけが坂倉を見つめつづける。
坂倉は無言で、少し厳しい顔をしたまま、真っ直ぐ前を見ていた。まるで、響貴などいないかのように。それが嫌で、響貴はそっとその腕を掴んだ。ときどき通る、反対車線の車のライトが、瞬間坂倉の顔を照らす。それがあまりにも一瞬で、響貴は切なくなった。
 何もかも、どうしてこんなにはかないのだろう。
 赤信号を認めた車は、ゆっくりと滑らかに止まった。そうしてやっと、坂倉が横を向く。
 真剣で、切羽詰ったような表情。視線が合ったのは一瞬で、また運転をするべく、前を向く。響貴は、その坂倉に声を掛けることがためらわれて、そっと手を戻した。


 前とは違う、廊下だった。青くない。坂倉は無言で前を歩いている。すぐ近くにいるのに、手を伸ばすことができない。伸ばしてはいけないと、拒否されている気がする。
 こつこつと、靴音が響いている。それがばらばらなのが嫌で、響貴はあわせようとする。でも、小柄な響貴は坂倉の歩幅と合わない。
 合うのは、一瞬で。
 また、すぐにずれてしまう。
 その音に集中していたら、ふと途切れた。前を見ると、坂倉がかちゃかちゃと鍵を開けている音が聞こえてきた。響貴もふと止まる。あと、数メートルの距離。
 坂倉は、一瞬立ち止まった響貴に視線を向けて、中に入っていく。響貴は慌てて、その後を追った。あくまでも、自分で行動することを坂倉は強いる。響貴は今は、何も考えずにその坂倉を追うしかない。
 でも、触れていいのか分からない。
 ぱたりとドアが閉まると、響貴はぺたりと座り込んだ。玄関から中が見渡せるほど狭い室内は、変わらず何もない。
 帰ってきたのだと。
 そんな風に思って。
 テレビもない。ソファーと、テーブルと、その上にパソコンが一つ。そして、坂倉がいる。目の前で、じっと響貴を見ている、坂倉が。
 響貴は、無意識のように手を伸ばした。そのまま、坂倉に抱きつくと、背中に腕が回されるのが分かる。
 温まる、背中。
 ゆっくりと、少しづつ。
 その腕に、帰ってきたのだと、実感する。
 白々とした蛍光灯の下、何もない部屋の入り口で、ただ二人でいる。でも、ここは確かに、自分の帰って来たかった場所なのだと、響貴は思っていた。
「名前を、聞いていい?」
「坂倉だ。坂倉和真」
「坂倉さん」
 そっと顔を上げて、響貴は坂倉の顔を探した。それから、そっと唇を重ねようとした。でも。
「髪を、切ろうか」
 坂倉はそう言って、響貴をゆっくりと離した。部屋の中へと向けられた顔は、響貴には見ることが出来なかった。


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