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満ちてゆく月欠けてゆく月

14
 甘い匂いに、ルカは開けていた窓に近寄った。どこかで、花が咲き誇っているのだろう。リラなのかバラなのか、見えないここまで香るのだから、強い芳香の花だ。
 ふと、壁際にそっと立てかけられた板に掛けられている白い布が風に揺れて、落ちた。ルカはそれを拾い上げて、ぱたぱたと叩く。それから、それをまた板に掛けようとして、手を止めた。
 見るたびに、胸が苦しくなる絵だった。柔らかく微笑む、自分の肖像。自分では決して描けない、自分。
 描く人間の優しい視線が思い出されて、ルカはいつも泣きたくなるのだった。
 いつかレオーネが言ったように、もし画家にも詩人達や音楽家たちのように魂を揺さぶる何かを作ることが出来るというのなら、この絵こそその証だとルカは思う。ルカにとっては、これほど魂を揺さぶるものはない。
 自分もいつか、そんな絵を描こう。
 今のルカには、それが生きていく目的だった。画家として、ミューズの微笑を見ることが出来たら―――。
 いつかそれを見るだろうと言った、レオーネの言葉だけが、ルカの支えだった。
 レオーネが病に倒れた兄に代わって、正式にバッジオ家の跡取になったと聞いたのは、冬も終わろうと言う頃だった。レオーネが迎えにくるからとミラノにルカを残して行ってから、三月ほどが経っていた。それと共に、レオーネの縁談話も、囁かれるようになっていた。
 それでも、ルカはずっと待っていた。自分からは、行動は起せない。敬虔なキリスト教信者だというレオーネの父親のことを考えると、自分が出て行ってしまったのでは、レオーネに迷惑が掛かるかもしれないからだ。現にフィレンチェで、同性愛の咎を受けた画家仲間もいる。幸い彼は疑いが晴れて釈放となったようだが―――自分たちはそうはいかない。疑惑が本当のことである限り、隠し切れないかもしれなかった。
 跡取となったからには、彼は妻を娶るだろう。
 そう言った、ミケーレの言葉がルカを深く暗い闇に突き落とす。と同時に、その闇を思えば、レオーネにとっては自分などいないほうがいいのだ、と思う。
 同性愛を咎められて、家を、街を追われてしまうよりずっと。
 ミケーレとの関係は、今や複雑になっていた。もう抱かれないと断固拒否したルカを、ミケーレは半ば力ずくで犯した。それを諦めたように受け入れたのは、ルカだ。罪滅ぼしのつもりで―――でも、それが余計にミケーレを傷つける。
 ルカは先刻まで描いていた花のデッサンを再開した。何かに使うわけではない。ただ、何かを描いていないといられないのだ。
 名もわからない小さな野の花は、引き抜かれたことなど知らないとでも言うように、風に揺れた。どこにいても、同じようにただ、咲いている。
 すうっと茎を描いたところで、誰かが扉を叩いた音がした。壁画が描き終わっても別宅に滞在したままのルカの元に通ってくる人間は、限られている。ルカはミケーレだろうかと思いながら立ち上がって、扉を開けた。
「あなたは……」
 しかし扉の前にそっと姿勢よく立っていたのは、思わぬ人物だった。ルカは何も言えずに、目を見開いて立ち尽くした。
「お久しぶりです。ご連絡もせずに突然お訪ねして、申し訳ありません」
 すっと頭を下げられて、ルカははっと自分を取り戻した。それから、慌てて顔をあげるように言った。
「あの、どうかお顔をお挙げ下さい。すみません、驚いたもので……さあ、どうぞお上がりください。長旅で、疲れたでしょう?」
 宿屋にも寄らずに来たのか、客は旅支度のままの格好だった。きつく縛られた靴紐も重そうなマントも、華奢な身体には酷に思える。
 客は、ルチアーノだった。しばらく会わぬ間に、随分と精悍な顔つきになっている。それは、長旅による疲れのせいだけではないだろう。レオーネのことで直接に影響があったのは、彼のはずなのだ。
 ルチアーノはルカの勧めに礼を言いながら、その手と足を洗った。それからほっと、一息つく。ぶどう酒を差し出すと、顔が綻んだ。
「やはり、ミラノは遠いですね。もっと近くにあると思っていたのですが……普段工房に閉じこもっている身には辛い」
 そう笑ったルチアーノの顔は疲れてはいても、どこか穏やかだった。ルカはそれを、ただ黙って見ていた。
 ルチアーノが、どうして自分の下に来たのかわからなかった。レオーネとのことならば、今やルカは最も遠いところにいる。
 ただ自分が、待っているだけだ。それは永遠に、続くとわかっていながらも。
「ただ、やはり南なのですね。フィレンチェより暖かい。花も、ずいぶんと咲き誇っている」
 途中でむせるほどのリラの花の大群に見舞われた、とルチアーノは穏やかなままの顔で言った。
 ああ、この香りはリラだったのだ、とルカは思った。甘く香る、春の匂い。
 どれだけ自分は時間を止めていたいと願っても、月日は確実に、そして容赦なく過ぎていく。それは哀しく切ないほどに、人を追い詰めていく。
 でも、それで癒されることもあるのかもしれない。目の前のルチアーノを見ていたルカは、ふとそう思った。
「早いものですね……あなたがこちらに来られて、半年以上経った」
 半年、いやもうすぐ、十ヶ月になろうとしている。ルカはすっと目を伏せた。時の長さを測るのは、辛かった。
「ルチアーノ殿……」
「ルカ、止めて下さい。どうか、呼び捨てで」
 くすくすと笑うルチアーノに、悪意はない。出会った当初から見えていた剣が、取れていた。
「では、ルチアーノ。一体、どうして……?」
 ことり、とルチアーノがコップを置いた。それから目で椅子を示されて、立ったままだったルカは初めてそのことに気付いたかのように、慌ててそこに坐った。
「あなたに会いに」
「え?」
「と言っても、信じてもらえないのでしょうね。でも、本当のことです」
 ルチアーノはそう言って、少し淋しげに笑った。ルカはその言葉と表情の意味がわからず、何も答えなかった。
「あなたに会って、お願いしたいことがありました。もしも、あなたが変わっていないのなら―――」
 変わるとは、どんなことを指すのだろう。ルカはじっと、ルチアーノを見つめた。
「でもどうやら、あなたは変わっていない。聞かなくても、わかるものですね」
「ルチアーノ……」
「まだ、レオーネを愛していますね?」
 それは、突然だった。ルカはルチアーノと、自分とレオーネの関係について話したことはない。薄々感づくことがあったとしても、こんな風にはっきりと言われるのは初めてだった。
「ルカ、答えて欲しいのです。まだ彼を想っているのなら―――どうか、その気持ちをお聞かせ願いたいのです」
 ルチアーノは、真摯な瞳で訴えた。それは糾弾すると言った類のものではなく、ただ、確信を得たいのだと言う顔だった。
 ルカはゆっくり、目を閉じた。それから、やはりゆっくりそれを開くと、「はい」と一言、はっきりとよく響く声で答えた。
 その目に、ルチアーノは胸を衝かれた。濁りのない、澄んだ目だった。何も見返りを求めず、ただ想っている。その深さが知れるような、美しい瞳だった。
「それならば……」
 ルチアーノは、淡い微笑を浮かべて、泣きそうな目をした。
「それならば、どうか、フィレンチェに戻ってください。そして、師を―――レオーネを―――どうか、取り戻してください」
 それは、きっとあなたにしか出来ないのだろうから。
「取り戻す……?」
「はい。レオーネは、レオーネではなくなってしまった。あんなに、厳しく冷たい顔のままで、笑わないレオーネは、彼ではない」
 ルチアーノの言葉に、ルカは困惑した。
 笑わない、レオーネ……
「彼がミラノから帰ってきたとき、お兄様が病に倒れました。それで、跡を継がざるを得なかったのです。そして、彼は絵筆を折ってしまった……」
 それでも一月ほどは、まだ朗らかさを失ってはいなかったのだという。それが次第に思い悩むような顔をし、いつからか笑わなくなり、冷徹なまでの表情を崩さなくなった。それと共に、容赦のない経営をするようになったのだという。銀行家のその一面を、最も嫌っていたのは他でもない、彼自身だと言うのに。
「私は、師が決めたのならば従おうと思いました。あの筆を惜しいと思っても、その才知は知っていましたから。でも、あんな師を見たかったわけではない。血の通わぬ人間のようだと言われるような、あんな師は―――」
 ルチアーノが辛そうに顔を歪めた。以前のレオーネを知っている分、口惜しく哀しいのだろう。
「なぜ、そんな……」
「わかりません。必要なことであったのかも、知れません。でも、あれでは、あのままでは、レオーネはいつか壊れます」
 あなたなら、とルチアーノは言った。誰でもなく、あなたなら、レオーネを元に戻せるのではないかと、思ったのだと。
「レオーネがあなたを描いた絵を、私も見ました。あれほど優しい絵を、私は見たことがない……いえ、一度だけ。私の父が母を描いた絵も、とても暖かいものでした。その父も、母を得て初めて、それまでの全ての悪行から足を洗って、きちんと暮らそうと思ったのだと、聞いています」
 ルカはルチアーノの父親を知らないが、その最愛の妻がモデルになったと言われる絵は見たことがある。とても美しく、包み込まれるような聖母だった。
 どうか、とルチアーノは言葉を重ねた。
 どうか、フィレンチェに戻って下さい、と。

 

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