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シュレーディンガーの猫
19
「兄……」
薄暗い部屋の中、そう言って俯いた響貴の顔は能瀬には分からなかった。電気をつけることも忘れていたと、立ち上がってスイッチを押す。微かな音がして、蛍光灯が白々とした光を放った。
呆然、と言ったらいいのか。照らされた横顔はでも、きつく唇を結んで、何かを必至に堪えているようだった。
「君はでも、本当の息子か分からないのだろう?」
それは事実ではあっても、なんの助けにもならない。分かっていても、能瀬は確認せずにいられなかった。
「はい……」
響貴は、今になって、そんなものに縋る。いっそうのこと、はっきりしてしまった方がいいのにと、何度か思ったこともあった。
――都住に、抱かれるまで。
響貴も都住孝治も、恐れていた。もし、血の繋がった親子だったら?だから、二人はそのことを確認しようとは思っていなかった。響貴は自分の、血液型さえわからない。
忌まわしい、血だ。どこまでも。
「坂倉さんは、それで……」
「あぁ、そうだろう。奴のことだから、一人でそのことは背負っていくつもりだったのだろうが」
響貴を、これ以上傷つけないために。
――でも
そんなことより、離れたことの方が、辛いのに。知ってしまった今でも、探しているのは、坂倉の手だ。
知ってしまったからこそ、はっきりと分かる。
「どうするんだ?」
穏やかな、問いかけだった。なにもかも、肯定してくれそうな。
「姉と最後に会ったとき、誰も助けてくれないから、自分で逃げなさい、って言われました。それから坂倉さんがパーティー会場に現れたとき、攫ってはくれませんでした。手を、伸ばすだけで。俺は今まで、自分で動くことをしなくて……」
組んだ両手の指を、ぎゅっと握る。凛とした横顔が、いやに綺麗だった。
時は流れて、人は変わっていくのだと、能瀬は当たり前のことを今更ながら思う。
「逃げてきて、坂倉さんの部屋に行ったとき、初めてだったのに帰ってきたって思ったんです。やっと、帰ってきたって」
ずっと変わらなかった、あの屋敷の部屋よりもずっと、自分を受け入れてくれる部屋。
「じゃぁ、帰ったらいいじゃないか。君の家へ」
響貴が顔を上げて見つめると、能瀬はにっこりと顔を綻ばせた。
事務所から坂倉のアパートまでの道を聞き、響貴は暗くなった街の中を歩き出した。といっても、事務所は繁華街に近い。昼間とは違う、圧倒的な明るさに、響貴はふと足を止めた。
いつだって、遠くホテルの上階から眺めるか、車の中からしか見ることの出来なかった光の雑踏の中に、今立っている。一人になることはなかったのに、今は一人だ。
不思議だった。
こんな日は、来ないと思っていたのだ。
ぐるりと一回り首を回して周りを眺めると、響貴はそれで満足したように歩き出した。先刻より、歩幅が大きい。こうやって、どこまでも行ける気がした。
初めて電車に乗り、初めて街の中を歩く。
決してきれいとはいえない道のごみを、じっと見つめる。ガラス越しではなく、ただ通り過ぎる人々を同じ高さで見る。
見えないものはたくさんあって、知らないことが、もっとある。そういうことを、見てもいいと思う。知りたいと思う。
そんな欲求が、今までなかったのだ。なかったというより、諦めていた、と言った方がいいかもしれない。自分の生活を、ひどく冷たい目で見ていたような。
駅からアパートまでは、歩いて十分ほどだった。丁寧に書かれた地図に、それでも響貴は少し迷う。自分の力で歩き、探す、というようなことに慣れていないのだ。
坂倉に会いに行く。
自分から、坂倉に会いに行くのだ。
「坂倉さん?」
チャイムを鳴らすということさえ分からずに、ドアを叩く。その音よりも、自分の心音の方が大きいのではないかと響貴は思った。こんなに心臓が働いたのは、初めてかもしれない。
会いに来た。
足音が聞こえて、止まる。響貴はぐっと顔を上げて、待った。
「坂倉さん」
興奮気味に歩いてきて上がった体温が、夜風に冷やされたはずなのに、また上がる。坂倉が切った髪が、その風に微かに揺れた。
「坂倉さんっ」
立ち去ろうとする気配に、思わず叫ぶ。
「……」
「開けろよ」
「……」
「開けろっ」
強気の口調とは裏腹に、響貴は泣きそうになっている。どんっと両手をドアに打ちつけたのは、抗議のためと言うより、自分を支えるためだった。
「……なんで来た」
低く、感情を抑えた坂倉の声がする。
「来たかったから」
「帰れよ」
「帰らない」
一度は、二人で生きていこうと決めた。でも、近くにいたら分かる。
抑えられない衝動。
何よりも、自分が怖い。
こんなふうに言われたら、手を差し伸べる自分が。
背負いきれない。この罪は、背負いきれない。
坂倉は、爪が皮を裂くくらいぎゅっと、手を握った。
思い出さなかったわけではない。
ごまかしで、だましあって抱き合った後に、子供のように眠っていた響貴を。
生きることに、必至になっていた目を。
何かもわからないものを、探していた瞳を。
「帰ってくれ……頼むから」
このドアを、開けないうちに。
「一緒に、いようよ。背負うから。俺も、背負うから」
事実でも、事実ではなくても。
「響貴……?」
「能瀬さんから聞いた」
響貴の喉が、ひゅっとなった。痛くて、たまらなかった。酸欠の金魚みたいに、息が上手く吸えない。
「……もう」
もう、この血に振り回されたくないんだ。
響貴が呟くようにそう言うと、ドアがかちゃりと開いた。そのまま引きずられるように引き込まれて、抱きしめられる。
堪えていた涙が、つっと目から零れ落ちた。
「ただいま」
囁くと、抱きしめられる腕に力がこもって、おかえり、と坂倉が囁くのが聞こえた。
*冒頭「シュレーディンガーの猫」についての記述は、CT様にご協力いただきました。ありがとうございました。
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