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la vision

20
入り口から一番遠いカウンター席は、ステラ・マリスの、周の特等席だった。今日は主役のはずなのに、周はそこに座っていた。
いいと言うのに、開かれた送別会。尋由の復帰祝いも兼ねるといわれて、しぶしぶ承諾した。
テーブルに持っていくはずのカクテルを一つ失敬して、周はそれを飲んでいた。尋由がいるから、アルコールは思うようには飲めなかった。周りも、勧めてこない。
一真が、呆れたようにため息をついた。
「飲み過ぎるなよ」
「…今日はずいぶん緩いね」
いつもなら、尋由がいる時点で周にアルコールを渡すなんてことはしない。その一真が、今日はため息一つでそれを許した。
「何か聞いてるの」
そう問う周をちらりと見て、そのまま視線を泳がせた。それはテーブル席で留まり、周は振り返らなくても、誰に視線が注がれているか分かった。
「バカ兄貴」
小さな呟きは、それでも一真の耳に届くには十分な響きを持っていた。頭上から、冷たい視線が注がれる。
「おまえ、良くそんな口きけるな」
「だって、普通言わないだろ?」
「見てりゃ分かる。だから俺からひろに話を振ったんだよ」
「見てりゃって…分かった?」
「そりゃもう良く」
返す言葉がなく、周はグラスを傾けた。そういえば、何度かここには二人できていた。あの時は必死で、周りを見る余裕などなかったのかもしれない。
「心配させやがって。まったく」
そう言いながら、一真は優しく微笑んだ。
「なに?」
「いや。良い顔になったな」
一時期、周は怖いくらいの気の張りようだった。それが穂積のことが原因とは一概に言えないと、一真にはわかっていた。
どちらかといえば、その緊張を解いたのが、穂積なのだろう。
尋由が思い詰めた顔をして店に来た時に、きっとそのことだろうと検討はついていた。
何故、放り出してしまったのか。
尋由はそのことを悔やみ、自分を責めた。要らぬ傷を、負わせたと。
穂積を思う周の気持ちは、確かに恋や愛とは言いがたいかもしれない。ただ縋るだけで、求めるだけで。内情のよくわからない一真も、周を見て、そう思っていた。
そんな辛い気持ちを持たせたことを、尋由は悔いていた。
「…そんなに暗かった?俺」
「あぁ…怖かったな」
触れればすぐ、崩れそうで。
一真はふと手を止めた。それから真っ直ぐに周を見た。
「…好きなのか」
周の思いは、恋になったのだろうか。目の前の周は、もう必死になって縋りつくものを必要としていなかった。
「好きだよ」
それは、一真が赤くなるくらい、切なく、幸せそうな微笑だった。

ギムレットは、グラスの中で、白く鈍く輝いていた。
誰が注文したのか、わかっていた。
―――今日は一度も、目を合わせていない。
視線も、通りぬけている。
本当は最初から、見詰め合っても、視線を交わしてもいなかった。
ほんのお遊びのつもりで投げかけられた視線に、周が捕らえられただけだった。そして多分、穂積自身も思いもよらないほど、その遊びが面白かっただけだ。
「周くーん。どうしてこんなとこいるのー?」
ぼんやりとしていた周に、香奈が近づいてきた。一度きりでも、慰め合った仲だった。あれから一度も二人で飲んだりしたことはなかったが、親近感はある。
「香奈さん…またずいぶん飲みましたね」
「そうぉ?」
「はい」
にこりと笑うと、香奈の目がじっと見つめてきた。
「何ですか?」
「周くん…きれーになったねー」
「はぁ?」
「かっこよくなった」
にやりと、笑う。
「誰だー?周をこんなにしたのは」
ふざけたように、そう言った。周は呆れたように、ため息をつくしかない。
「あーぁ。私も綺麗にしてくれる人が欲しーい」
香奈の目は、相変わらず穂積を追っていた。それなのに、穂積と周の関係に気付かなかったのは、鈍いのか、それとも穂積たちが上手く隠していたのか。
香奈は言いたいことだけ言って、またふらふらと、テーブル席に戻った。その香奈を見ながら、周はぼんやりと穂積に視線を移した。
自分が、この男のせいで変わったと思うと、何処か悔しかった。
闇のような黒い髪。
切れ長の目。
その中で、妖しく光る瞳。
細い、長い指。
赤い唇。
一つ一つを目で追ってしまう自分に苦笑して、周はため息をつきながらグラスに視線を戻した。
自分の視線に、穂積は気付きもしない。それを、笑ったのだ。
自分はいつでも、穂積の視線に踊らされていたのに。
目の前のギムレットを飲もうとグラスに手を伸ばして、周はふとその手を止めた。周がグラスに手を触れる瞬間に、違う手がグラスを奪ったのだ。
「飲みたいなら、自分で頼んでくれ」
もう半分はなくなっていたその液体を、穂積はぐっと飲んだ。さっきまで、確かにソファーに座っていたはずの穂積が現われて、周は一瞬、動きを止めた。それから、顔を上げた。
―――視線が、合う
「それから、」
口角を少し上げるだけの、独特の笑顔を見せながら、穂積は続けた。
「あまり見つめないでくれ。誘われる」
気付いていた。そのことに羞恥を感じながらも、そのふざけた口調に、周はため息をつきながら笑った。
「穂積さん。いつか、あなたを視線で誘ってみせます。あなたが、俺にしたように」
「…それは、楽しみだ」
苦笑が、見える。それと一緒に、周も笑った。
「覚悟、しておいてください」
「あぁ」
ソファーから、二人を呼ぶ声がする。周は穂積に手を引かれて、しぶしぶ立ち上がった。
「あっ」
「どうした?」
「言い忘れ」
そう言って、周は穂積を引き止める。
「俺、あなたが好きです」
何をしても、どうなっても、変わらなかった気持ち。それなら、変える必要もないと、周は思ったのだ。
この無邪気さを無くす前に、伝えなければいけなかった。今なら許される気が、した。
繋がれた手を解いて、周は歩き出した。
その背に視線を注がれても、周は振り返らなかった。

やわらかな、ほんの少し茶色い髪。
印象的な黒い目。
その中で、きらきらと輝く瞳。
細く、神経質そうな指。
赤い唇。
赤い―――


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