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あふれ出る言葉など何の役にも立たない

15
 もう少し撮らせろ、と喚く先輩を無視して、芳明は右をさっさと連れ出した。
「いいのか、あれ」
「ああ、いいんだよ。逃げ出さないといつまで経っても離してくれないぞ」
 少し不機嫌な芳明に、右は首を傾げながらもついていく。今日は一緒にはいられないと思ったから、少し嬉しい。
「右は食った?」
「あ、まだ。短冊も書いてなくてさ。これ、逃げられないだろ?」
「ああ……チェックがかかってるからな」
 クラス委員が笹の前で待っているのだ。何もそこまでしなくても、と思うのだが仕方がない。
 からん、からん、と音をさせながら、二人は食事が並んでいるテーブルまで歩いた。
「ホウメイは?書いた?」
「ん?ああ」
 立食になっているため、紙皿とコップを右に手渡しながら、芳明は頷く。
 なんて?と聞こうとして、それじゃ願い事にならないか、と右は口を閉ざした。
「当り障りのないことだよ。バスケが上手くなりますように」
 そう言って笑った芳明は、子供みたいだった。右もつられて、笑う。
 それがあまりに自然な笑みで、芳明は目を細めた。ふわりと頭を撫でたくなって、自嘲する。手に皿とコップを持っていて良かった、と思った。
「うーん。じゃあ俺も、頭が良くなりますように、とか……あ、背が高くなりますように!」
 無邪気にそう言った右に、芳明は堪えきれずに笑った。
「それじゃ本当に小学生の願い事だろ。それとも右はまだ成長期なわけ?」
 ちえー、どうせ止まっちゃったよー。と珍しく拗ねる右に、そんなに低いってほどでもないだろ?と芳明が言う。
「おまえらがみんな、でっかいんだよ。基一も圭一もさ。滝口もガタイいいし」
「おまえの顔でガタイがいいのもなあ」
「なんだよそれっ。どうせ男っぽくないよ」
「いや、そうじゃなくて。右は今のままの、そのままがいいって」
 な?と覗き込まれるように言われて、右は絶句した。
「ホウメイって……」
 右は思わず呟く。ん?と聞き返す芳明は、目の前の食料の確保に一生懸命で。
「凶悪だな……」
 そう呟いた右の声など、きっと聞いていなかったに違いない。
 そして、その後ろで漏れた数々のため息は、二人には届いていなかった。


 疲れた身体を引きずるように帰ってきて部屋に入ると、いつもの右の「おかえり」が聞こえてこなくて、芳明は首を捻った。どさりと荷物を玄関に置くと、それだけで倒れそうになる。
 先日の七夕祭りのときに、さっさと右と逃げた芳明に、海田が八つ当たりをしたのだ。あれは、八つ当たりだ、と芳明は思う。西に姫がいないために、今年の七夕の織姫と彦星は、春姫の重藤千速と公認の「彼氏」である海田広だけだった。だから写真からインタビューから集中していて、海田も辟易していたのだろう。右の写真撮影を断固として断っていた芳明に、海田が命令したのだ。連れて来い、と。
 部長で先輩である海田にはさすがに逆らえず、仕方なく右の写真撮影を許可した。ただし、一枚だけ。それからさっさと逃げた二人のことを、根に持っているのだ。だから、ここのところ海田の強靭な体力に付き合わされている。
「右……?」
 物音を立てても出てこない、音楽も聞こえてこない静かな部屋を不審に思いつつ部屋に入っていくと、ソファーの肘掛に右の頭が見えた。覗くと、すやすやと眠っている。
 そのあどけない顔に、芳明は思わず頬を緩めた。いつもは凛とした、冷たいと思えるほどの綺麗な顔をしていて、綻ぶと確かにそれが柔らかくなる。でも、それは切なさと一体で、自然な笑みでさえ大人っぽさを感じさせるのだ。それが眠ると、本当に年相応の、あどけない顔になる。
 時計を見ると、食事の時間は始まっている。それでももう少しだけ、と芳明はその寝顔を眺めた。疲れがすっと引いていくようで、ほっとする。
 いつから、自分はこんなに右に惹かれていたのだろう。
 そっとソファーの背凭れに腰掛けて、芳明はじっと右の顔を見る。
 触れて、抱き締めて、自分を見て笑って欲しい。そんな風に思うようになったのは。
 思い出せる場面は色々あって……そのどの瞬間も、きっと惹かれていたのだろう、と芳明は思った。
 思いもしなかった独占欲を自覚したのは、あの七夕の日の夜だ。浴衣を着た右を、本気で人前に出したくなかった。滑らかな項も、細い足首も、清廉な印象ばかりの右に色気を纏わせていて、これは駄目だろう、と思った。二人だったら、きっと無理やりにでも着替えさせたに違いない。でも、あのときには基一も圭一もいて、時間がないと呼びに来た誠吾たちもいて、だからぐっと我慢をした。
 その後もずっと、右が気になって仕方がなかった。視界から消えると、不安になる。総代だからと写真を撮られたり、本来の仕事であるいざこざを取り成したりしながらも、いつも右を探してしまっていた。夕闇の中で笹を見上げていた右には、見惚れたりもした。
 あのとき、明確にはっきりと、自分の中で右への気持ちが形作られたのだと思う。厄介極まりない、だが抑えようもない、ひどく柔らかで傷つきやすいもの。同時にそれは、ただほんのりと、胸を温めるものでもあった。
 ふうっと息を吐くと、右が身じろぎをした。それから、ぱちりと目を開ける。そう言えば寝起きはいい、と言っていたな、と芳明はその顔を見ながら思い出した。
 まだはっきりと焦点の合わない目が、ひどく綺麗に見えた。
「あれ……?」
「おはよう。飯の時間だからどうしようかと思ったんだけど」
 芳明がそう笑うと、右がまだ少しぼんやりとした顔をしながら、ああ、と時計を見た。
「数学やってたら眠くなっちゃって。どうして数学の教科書って眠くなるんだろう」
 そんなことを言っている。確かにテーブルには数学の教科書が広がっていた。
「ホウメイは?今帰り?」
「そう。部長にしごかれてくたくただよ」
 芳明はそう言いながらも笑って、シャワーを浴びに行く。寮が近いため、体育館のシャワーは数が少なく、最下級生に回ってくることはない。
「飯、一緒に行く?」
 ふいに振り向かれて、その姿を追っていた右は思わず目を逸らした。
「あ、うん」
 それだけ言うと、芳明が微笑んだのがわかる。それから、速攻で済ませるからちょっと待ってて、と言うのに、今度は頷くだけで返した。
 寝顔を見られたのだろうか、と今更ながら右は先刻のことを思い出す。苦笑したような、でも柔らかい芳明の顔が浮かんだ。
 はあっとついたため息は、寝起きの所為なのか、それとも別に理由があるのか、妙に熱かった。


 寮の食堂は一階で、食事の時間帯はエレベーターは混むことがわかっているために、二人は階段で下まで降りた。それでももう遅い時間だったので、食堂は思ったより空いていた。
「あ、木田。丁度良かった。ちょっと」
 トレイを持って席を探していたら、寮長の深山に呼ばれた。おいでおいで、と手を振られて、芳明は仕方なくその隣に行く。右が迷っていると、芳明が振り返って待ったので、その後を追った。
「悪いね、折角のところ」
 深山がそう笑う。あまり話したことがない三年の先輩に、右は小さくなっていた。優しそうだが、先輩は先輩だ。しかも、隣に絶大な人気を誇る春姫まで坐っている。
「そう思うならさっさと済ませてください」
 芳明は慣れているのか、そんなことを言う。それから、礼儀正しく「いただきます」と言って、食事に手をつけ始めた。右もそれに習って、小さく「いただきます」と言う。
「なーんか可愛いね」
 くすくすと、千速が笑って、右は訳もわからず赤くなった。確かに、綺麗な人だ。そして、右から見たらとても大人っぽい。
「先輩に言われると納得いかない……」
 隣で芳明がぼそりと呟く。それに深山がそうだよねえ、などと相槌を打つ。
「俺、すごいしごかれてんです。部長に」
 芳明が少し非難をこめてそう言うと、深山が苦笑した。それから、千速がにっこりと笑う。
「広は君に期待してるんだよ」
 それに、芳明ははあっと大きなため息を吐いた。先輩たちの愛情は、かくもわかりずらい。ついでに、はた迷惑と思うときもある。
「で?なんですか?」
 先輩とこうして渡り合うような芳明を見るのは、実は初めてだ、と右は唐突に思って、どこか淋しくなった。知っているようで、知らない芳明は一杯いるのだ。
「ああ、夏休み中のことなんだけどね」
 深山がお茶をコップに注ぎながら話し始めた。
「杉本、だよね?」
 なんとなく気詰まりを感じつつ食べ始めた右に、千速が話し掛けてきた。それに、こくりと右は頷く。
「でも、よく知ってますね」
「まあ、そりゃあ、ね」
 何が「そりゃあね」なのかわからなくて、右は首を傾げた。
「結構有名だよ?杉本も、木田も」
 千速は食べ終わったのか、もう箸を置いてしまっている。右は「はあ」とだけ答えて、鯖の味噌煮をつついた。
「まあ、俺も後継ぎは気になると言うか……」
 そんなことを呟いた千速に、右がまた首を傾げる。
「可愛いねえ、杉本は」
 その仕草に、千速がにっこりと笑う。その綺麗な表情に、右は先ほどの芳明のセリフを思い出していた。先輩に言われたくない……。
「重藤先輩?海田先輩に言いつけますよ?」
 いつの間に話が終わったのか、芳明が千速を睨んでいる。それには深山がにやりと笑って言った。
「やめとけ。あいつはきっと千速のほうが可愛い、とか言うだけだから」
 それには三人が三人とも絶句をして、芳明はもう何度目かわからないため息をついた。想像できて、頭が痛くなりそうだった。
「でしょうね。ご忠告ありがとうございます」
 そう言って、立ち上がる。
「右、食べかけのところ悪いけど、移動しよう。この先輩達といると悪目立ちする」
 そう言われて、訳がわからずも右は立ち上がった。それから、ちょこりと頭を下げると、二人ににっこりと笑われる。
「木田もこれくらい素直なら可愛いのにね」
 深山がそう言ったのは、聞こえない振りをした芳明だった。


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