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満ちてゆく月欠けてゆく月

16
 廊下のほうが少し騒がしくなって、レオーネは返済を遅らせて欲しい旨が書かれた書状から顔を上げた。この成り上がりの貴族は、これで三度目の未返済だ。返す気などさらさらないような文面に、利子を上げてやろうかと考えていたときだった。
 ああ、ロレンツォでも来たのだろう。
 そう思って、再び書状に目を落とす。本当なら、出迎えをすべき相手なのだが、レオーネは立とうとはしなかった。仕事以外の客は受けないと言ってあるから、仕事の名目でやってくるが、こうして突然来るときは大した用のないときが多い。それをわかっているから、レオーネはせめてもの抗議の意味も込めて、出迎えないのだった。
 ―――今のあなたは、私の尊敬した師ではない。
 ルチアーノには、そう言われた。ジュリアーノも、あからさまに今の自分に嫌悪の表情をする。
 どうでもいい、とレオーネは思う。
 どう思われてもいい。今は、この銀行家と言う仕事をこなせばいいのだ。
 以前持っていた様々な感情は、捨てることにした。自分には、もう拠り所はないからだ。
 レオーネは、二度と、そんな当てにならないものは探さないことに決めていた。失うときの方が痛みが大きいのなら、持たずにいることのほうがどれほど楽かわからない。
 ノックの音が聞こえて、レオーネは「何だ」と答えた。
「メディチ家のロレンツォ様がおいでなさいました」
 予想通りの声に、レオーネは仕方ないとため息を吐いた。少なくとも、バッジオはメディチの庇護下にある。友人と言うより、その取引相手の当主として接しようとしているのは自分なのだから、それらしくしなければなるまい。
 レオーネは扉を開けるよう言ってから、立ち上がって、挨拶の用意をした。そのよそよそしい挨拶を、ロレンツォが気に入ってはいないとわかっていながら。
「相変わらず、頑なだな」
 ロレンツォの苦笑を聞きながら顔を上げたレオーネは、驚きに目を見開いた。ロレンツォの後ろに、そっと控える姿がある。
 数ヶ月前まで、焦がれた姿だった。
 何度も、抱きしめたいと思った。その温もりで、癒されたいと思った。
 でも、それは一度も適うことなく、レオーネは感情を捨てていった。
 その、姿が。
「……申し訳ありませんが、仕事の話ではないのならば、お引き取りいただけませんか」
 真っ直ぐに自分を見ているその目を見ることなしに、レオーネは冷たい声でそう言った。なぜ、ルカがロレンツォといるのかはわからなかったが、今更関係はない、といい聞かせる。
「仕事の話さ。それもいい話だ。ベルナ枢機卿の預け入れについてな」
 預入れと言うのなら、確かにいい話だろう。でも、それで何故、彼がここにいる―――?
「それと、おまえに肖像画の一つでも贈ろうと思ってね。今日は画家も連れてきた」
 飄々と言ってのけるロレンツォを、レオーネは睨みつける。もはや、わからずに連れて来た訳ではないだろう。
「ありがたいお言葉ですが……多忙の身にて、遠慮いたします」
 レオーネはそうはっきりと言ったが、ルカは引く訳にはいかなかった。
「わたくしのことは、どうかお気になさらぬよう。時間は取らせません。お仕事をなさっていて結構ですので」
「そう言う訳にもいくまい。書類の中には重要なものもある。部外者に立ち入られたくない」
 それは、信頼に値しないと言うことだろうか、とルカは唇を噛み締めた。
 正論だ。だが、あまりに冷たい口調に、胸が抉られるような感じだった。
「私が連れてきた者が信用ならない、と?」
 そこに、ロレンツォが笑っているような声で言った。レオーネは「いえ」と言ったが、それ以上の反論はできなかった。
「仕事場に立ち入られたくなかったら、少し時間を割けばよい。一日一、二時間の時間を作ることぐらい、おまえなら出来るだろう」
 ロレンツォも引く気はないらしいとわかり、レオーネは承諾せざるを得なかった。ただし、今日一日、二時間だけと言う条件をつけた。


 お好きなところにお座りください、と言われてレオーネが坐ったのは、なんと開け放した窓枠だった。ぼんやりと、外を見ている。
 外でも見ていなければ間が持たないのだろうが、そう言う突拍子もないことをするのはレオーネらしい、とルカは口元を緩めた。
 二時間では、細かく描いてはいられない。でも、その顔を焼き付けるには十分だった。
 少し痩せたな、とルカは胸を痛めた。頬から顎に掛けてシャープになっている。それが甘い顔を厳しく精悍にしているとも言えたが、どちらかというと痛々しかった。光なく、ただ景色を見つめ続けるその目も。
 先刻聞いたレオーネの声は、聞いたこともないほど冷たく響いた。感情の見えない硬い声は、聞いている者の背筋をひんやりとさせる。
 あれほど、柔らかい声だったのに。
 思わず赤くなるほど、甘い視線だったのに。
 ルカは木炭を休むことなく動かしながら、その顔を眺めつづけた。レオーネは、一言も喋ることなく、そして一度足りともルカを見ることなく、ただ、景色を眺めていた。
 それからずっと、ルカはレオーネの肖像を描いている。工房の部屋に篭って、それこそ寝食忘れたように、ただひたすらに。
 それほど大きい肖像画ではない。でも、ルカは丁寧に、何度も、描いた。
 ルカが選んだ構図は、当時流行っていたフランドル絵画を真似た構図で、身体を四分の三ほど斜めに向けたものだった。でも、視線だけは真っ直ぐ、鑑賞者に向けられている。顔の輪郭は、少しシャープになった今のレオーネのものだが、その強く真摯な目の光は、今のレオーネが失ってしまったものだった。
 その目に射竦められると、ルカは動けなくなってしまう。そうやって自分を釘付けにしておいて、次第に甘い雰囲気になるレオーネに、何度赤くなったことだろう。
 その真っ直ぐな目も、優しい目も、好きだった。
「ほう……随分と男前だな」
 後ろから、からかうような声がした。ルカは手を止めて振り返る。
「そうでしょうか……」
「なんだ。まだまだ不満げだな」
 フェルディナンドは、絵の正面に向かい合って、検分するようにそれを見た。
「先生は、レオーネが描いた私の肖像をご覧になりましたか?」
「ああ、見せてもらったよ。なんと言うか……驚いたな。こう言う描き方も出来るのかとも思ったし、少し、戸惑いと言うか恐怖のようなものもあった」
「恐怖……?」
 訝しげなルカに、フェルディナンドはゆっくりと頷いた。
「嘘偽りない、真っ裸にされたような絵だろう?絵にも、そう言う力があったのだ、とね」
 レオーネが描いたルカの肖像画は、構図、技法ともになんら新しいところはなかった。ただ、そこに製作者の感情とモデルの気質や感情が描かれている点が、他の絵と一線を画している。そう言ったことが受け入れられるのはまだまだ先のことだが、少なくともルカやフェルディナンドには衝撃的だったには違いない。
「それでルカは、レオーネを真っ裸にしよう、と企んでいるわけか」
 にやりと笑った顔に、ルカは微かに頬を赤くしながら頷くわけでもなく、絵を見つめた。
 自分が、一番好きなレオーネを描こう、とそう思った。それが果たして、表われているのかどうかは、わからない。
「君たちの描いたお互いの絵を見ていると、レオーネが、絵は虚像ではない、詩や音楽にも匹敵するものだ、と言っていた意味がわかる気がするな」
 すっと、フェルディナンドの手が伸びて、板の淵をなぞった。
 古代ギリシャから言われてきたことだ。虚像を描く絵は、詩や音楽には劣るものだ、と。
「ルカを描いたレオーネの絵に、その証拠を見せてもらったよ。正直、彼が絵画から手を引いたのは残念だ」
 それには同意して、ルカは頷いた。
「でも、レオーネは自分にはその理論を言うことは出来ても実践できない、と言っていた」
「出来ない、と?」
 ああ、とフェルディナンドは苦笑した。そしてまた、自分もそんな絵は描けない。
「最後だからこそ、レオーネが描いた君の肖像は素晴らしいのかもしれないということだ。自分にはその才能はない。出来るならルカ、君だとレオーネは言っていた」
 ルカの目が大きく見開かれた。
 ああ、レオーネは何故、そこまで自分を評価してくれるのだろう。
「筆を折ったレオーネに、君はそれを示さなければならない。彼の期待に、答えるべきだと私は思う。だが……その心配もないようだね」
 フェルディナンドがすっと目を細めた。それから、絵を持ち上げて笑う。
「いまや殻に篭って少しも己を出そうとしないレオーネ本人より、この絵はレオーネらしい」
 ルカはただ、ありがとうございます、と頭を下げた。


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