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満ちてゆく月欠けてゆく月

17
 絵が仕上がったのは、レオーネの下を訪れてから二週間ほど経った頃のことだった。ルカにしてみれば、早い出来だと言える。
 あの頑固者は、きっと仕事以外はとまた拒否するだろう。そう言って、ルカに手を貸す約束を、ロレンツォはしていた。絵が出来上がったら、ロレンツォの書状を持ってバッジオ家に行くように、とルカには言ってあったのだ。
 正式な書状を持っていたら、門番も通すしかない。だが、ロレンツォがいた前回と違って、ルカは応接室のようなところに通され、お待ちくださいますよう、と深々と頭を下げられた。
 ルカは落ち着かない気持ちでソファーに坐っていたが、すぐに見てもらえるように絵を包んでいた布を取り払う。絵は脇に抱えて持てるほどの大きさだが、これぞレオーネだ、と工房のみんなのお墨付きをもらっている。
 見て、知って欲しかった。自分が見ている、レオーネを。
 しばらくして部屋に入ってきたのは執事で、アルベルトと名乗った男だった。ロレンツォの書状を携えてレオーネの元に行ったはずだが、一人、戻って来たのだ。
「申し訳ございませんが、主は只今多忙の身となっております。こちらに伺うことは叶いませぬゆえ、わたくしの方でそちらの絵は預かるよう、申し付けられました」
 そう、深々と頭を垂れられて、ルカは唇を噛み締めた。会いたくもない、ということなのだろう。落胆の表情を隠せないまま、ルカはすっとその絵を差し出した。
 見て欲しい。今はただ、それだけだ。
「では、どうか、ご覧いただけるよう、心からお願い申し上げます」
 ルカが差し出した絵を、アルベルトは押し頂いた。そして、その絵に、僅かながら目を見張った。
 レオーネがいる、と思った。
 アルベルトはバッジオ家に昔から仕える執事で、レオーネのこともよく知っていた。彼の中に息づくレオーネは今でも愛くるしい笑顔を振り撒く子供で、やんちゃで向こう見ずで優しい、バッジオ家の三男坊だ。
 その自由さを好む性格を知っていたアルベルトは、レオーネが後継ぎとなることを承諾したときから、密かに心配をしていた。バッジオ家の当主として、相応しくないというのではない。銀行家としても一家の当主としても、素晴らしい主になるだろうと確信している。だが、ご本人はどうなのだろう―――と。
 その心配は的中し、銀行家として、期待に沿う目覚しい才能を見せながらでも、レオーネは自身を失っていった。あの愛らしい三男坊の面影は、どこにもなくなってしまったのだ。
 それが、目の前の絵の中に、あった。強く真摯な瞳をしながら尚、視線はどこか優しい。レオーネの変化に心底心を痛めていたアルベルトは、思わず目が滲んだ。
 あの、硬く殻を被った心を、破るものがここにある。きっと傷つけることなく、眠っている本来のレオーネを、そっと救い出してくれるだろう。
 アルベルトはそう思い、必ずや届けますと、誓うように言った。
 そして、出来うることなら、目の前の凛とした青年に、主に会って欲しいと、心の底から願っていた。


 一目見たかった、その手で渡したかった。その思いは閉じ込めて、ルカは広くて長い廊下を歩いた。結果は全く見えていないが、達成感のようなものはあって、足取りは決して重くはなかった。
 通じたらいい。自分がどんな風に、レオーネを想っているのか。
 ルカ、と自分を呼ぶ声を聞いた気がしたのは、玄関ホールに着いたときのことだった。重厚な扉を送迎してくれた屋敷の人間が開こうとしたときで、ルカはふと足を止めた。
「ルカ!」
 今度ははっきりと聞こえた声に、ルカは振り返った。
 レオーネが、走ってこちらに向かって来ていた。その手に、先刻ルカが執事に預けた絵を持って。
 息荒いまま、レオーネは立ち止まった。
 今更、とレオーネはずっと思っていた。ルカが訪ねてきて、モデルをしたときからずっと、今更なんだというのだ、とレオーネは怒りにも似た気持ちでいた。
 ようやく平静になった気持ちを、掻き乱して欲しくない、と。
 だから絵も、見るつもりはなかった。自分が捨てた「絵」であり、失ったルカの手によって描かれたものと言うだけで、レオーネには見る勇気が出なかった。
 あれこれ考えて、ロレンツォがルカを雇ったのは本当かもしれない、とレオーネは結論を出していた。レオーネが筆を折ってから、メディチのお抱え絵師となった人物はいない。その技量試しとして、連れてこられたのではないか、と。
 そう思えば余計に、絵を見るのは辛かった。ルカはもう、自分とのことなど忘れたのだろう。そう、思うと。
 だが、いつもは決して余計な口出しをせず従うだけの執事のアルベルトが、今回は引き下がらなかった。どうか、すぐにご覧下さい、そう絵を差し出されたのだ。
 言葉が、なかった。
 技量試しとしての肖像画ならば、レオーネをバッジオ家の時期当主らしく、威厳ある若々しい青年として描くべきだろう。それはあくまで権力と財力を誇示するためで、その他の要素はいらない。だが、ルカが描いてきた絵は、全く違うものだった。
 銀行家としてではない、まして絵師としてでもない、ただ、レオーネと言う人物が描かれていた。
 ルカ、と思わずその名が零れた。
 これが、以前自分が渡した絵への返答なのだと、いくら心を無くしたといわれたレオーネでもわかる。あのときの自分と同じ気持ちで、描いてくれたのだと。
 立ち止まったレオーネと、振り返ったルカの視線が交差した。探り合うのではなくただ見詰め合って、どちらともなく、二人は手を伸ばした。
 言葉なく抱き合いぎゅっとお互いの温もりを確かめると、深く深く口唇を合わせる。
 ああ、この腕の中に帰ってきたのだ、とお互いに思った。
「ルカ……ありがとう」
 持っていた絵を上に掲げて、レオーネが呟いた。いまだ吐息が触れ合うほどの距離にいたルカは、名残惜しそうに少しだけ身体をずらして、顔を上げた。レオーネが、自分の少し後ろ上を見ている。それが自分が描いた絵だとわかって、ルカは微笑んだ。
「あなたを、描きたかった。僕の中にいる、あなたを」
 そっとルカが頬を撫でる。それにレオーネは目を細めて優しく微笑んだ。


 それぞれの誤解を解くべきだ、とレオーネが言って、ルカはレオーネの部屋に通された。途中、先刻の執事のアルベルトに深々と頭を下げられて、ルカもお辞儀をし返した。きっと、彼のおかげでレオーネは絵を見てくれたのだろう。
 開け放たれた窓から、甘い匂いが香った。最後のリラだ、とルカは思った。
 ルカは全てを正直に、レオーネに話した。ミケーレとの関係も、なにもかも。手紙のことはミケーレを告発するようで嫌だったのだが、手元に届かなかった、という一言でレオーネは察したらしかった。
「だから、あなたの元に駆けつけられなかった」
 とても申し訳なさそうなルカの頭を、レオーネがゆっくりと撫でる。どうして、ルカを信じなかったのだろう。手紙が戻ってこないだけで、なぜ、諦めたのだろう。そう思うと、謝るのは自分だとレオーネは思った。
「この間は、ひどく冷たい対応をしたな。悪かった」
「覚悟はしていたんだ。みんなが、脅すから」
 ルカは少し目を伏せて笑った。本当は、実際見るまで、ルカは「冷たいレオーネ」を想像できなかった。
「脅す?」
「そう。レオーネはレオーネではなくなった、ってね」
 ルチアーノもロレンツォも、フェルディナンドも、あのレオーネに心を痛めていた。どうにかして、元の姿に戻らないか、と。
「みんなだ。みんな、レオーネに元に戻って欲しかったんだ。もちろん、僕もね」
 こんな風に、優しく髪を梳いてくれるレオーネに。
 薄っすらと笑いをのせた顔で、甘く見つめてくるレオーネに。
 喰らいつくように唇を塞ぐ、レオーネに。
「……ふ……レオー……ネ」
 唇が離れた途端、少し咎めるように発せられたルカの声に、レオーネは目を細めて再びその唇を塞いだ。ぱさり、と寝台の上に髪が散って、ルカは潤んだ目をレオーネに向けた。飢えていたのは、何もレオーネだけではないのだ。だが。
 トントントン、と遠慮がちに叩かれた戸の音に、レオーネが軽く舌打ちをした。ルカにしてみれば、だから言ったじゃないか、と抗議したくなる。何しろ、朝の仕事中にレオーネの元を訪れたのだから。
「アルベルトも気が利かない。取り込み中だ」
 臆面もなくそんなことを言うレオーネに呆れつつ、ルカは笑った。でも、二人の体が重なる前に、アルベルトの声が遠慮しつつもきっぱりと聞こえた。
「申し訳ありません。しかし、ジュリアーノ様が至急お目通り願いたいと申しておりまして……。お待ちいただけるか伺いましょうか?」
 ジュリアーノのことだ。ロレンツォから何か聞いているだろう。待てといって待つような人物でもない。踏み込まれること必至で、レオーネは深くため息をついた。ジュリアーノのその性格をわかっていて、アルベルトは戸を叩いたに違いない。
「わかった。行くよ」
 レオーネはルカにもう一度、軽く口付けた。
「ロレンツォの弟だ。うるさいのは兄に勝るとも劣らずだから、少し相手をしてくる」
 待っていてもらえるか、というレオーネに、ルカは苦笑しつつ頷いたのだった。
 心底名残惜しそうなレオーネに、ルカはそれだけで満足だった。


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