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満ちてゆく月欠けてゆく月

18
 案の定、ジュリアーノはその気品ある顔立ちに、にやにやとした笑いを浮かべていた。誰が来ていてどんな状況なのか、アルベルト辺りに聞いているのだろう。彼は主に忠実な執事だが、「お願い」だの懇願だのに弱い。その上、ジュリアーノは末の弟らしい愛想のよさと愛嬌を持っている。
「用件を聞こう」
 ジュリアーノはソファにゆったりと坐っていたが、レオーネは坐りもしなかった。
「兄さまがレオーネに肖像をプレゼントしたって聞いたからね。それを見に来たんだ。フェルディナンドの愛弟子なんだろう?」
 一体絵を見に来たのか、画家を見に来たのか。レオーネは憮然とした顔のまま、どうしようかと考えた。絵も画家も、見せたくはない。
「見せない、はなしだよ?兄さまにも出来を確認して来いって言われているし」
「……金はこっちで払う。メディチから贈り物など貰えない。ただでさえ、お気に入りだの贔屓だの言われている身だからな」
「レオーネの次期当主就任祝いだよ。なに?気に入らなかったの?」
 贔屓だと言われていることなど、今更だった。大体、そのことでバッジオ家が困った話など聞いたことがない。
 ジュリアーノは楽しそうな、お気に入りのおもちゃを見つけたような顔を隠しもしなかった。レオーネからぴりぴりしたような、冷たい雰囲気が消えている、そのことが嬉しくて仕方がなかった。ロレンツォのお節介は確かに効果を発揮したのだ。その最大の功労者を見ずに帰るつもりなどなかった。兄のロレンツォが、美しい青年だったよ、とお世辞ではなく言ったこともジュリアーノの好奇心を掻き立てた。
「気に入らなかったわけではない。だが、次期当主祝いか……当主ならともかく、そんなものは貰えない」
「もう出来上がっているのに?」
 ジュリアーノの言葉に、レオーネが思わず笑った。そう、断るなら、あのときに断固として断るべきだったのだ。あのルカの真っ直ぐな目に、呑み込まれて頷いてしまった、あのときに。
「絵ぐらい見せてくれても良いだろう?いい出来だったら、僕の肖像も描いて貰いたいし」
 結局は、ルカと会うことを諦めないジュリアーノに、レオーネは仕方がないとため息を吐いた。ルカにとっても、メディチの保護を受けることは決して損ではないだろう。ミラノの礼拝堂で、目を輝かせていたルカを思い出す。
 まだまだ、やりたいことも試したいこともたくさんあるのだとルカは言った。その中にはレオーネも驚嘆するようなアイデアもあった。それらの中には資金がいるものもあり、惜しみなく援助が出来るならしたいと思ったのだ。そもそも、絵具なども質の良いものほど高い。
 画家はもっと自由に描くことが出来てもいいはずだ、とはレオーネが長年抱いてきた思いだった。筆を折った今、それをルカに託したかった。
「……わかった。絵を持ってこさせよう」
「もちろん、画家本人に、だよね?」
 もはや何も言わず、レオーネはアルベルトを呼んだ。恭しく主の言葉を聞いた執事は、その主からの、なぜジュリアーノを通したんだ、という非難の視線には気付かない振りをした。当主が元の心を取り戻したことを一緒に喜ぶ相手として、ジュリアーノは最適だったのだ。
 もちろん、アルベルトは主に忠実な、そして主の心をきちんと汲んで行動する優秀な執事だった。「絵を持って来て貰え」と言ったレオーネの言葉を間違えることはなかった。絵は、レオーネの私室に置いてあるのだ。そこには、ルカもいる。持ってこい、ではなく持って来て貰えと言うからには、誰に頼むかなど明白だった。
 ルカはレオーネの私室で、ぼんやりと外を見てレオーネを待っていた。よく、レオーネが外を見ていたことを思い出したのだ。レオーネの私室からは、あの花の大聖堂が見えた。それを見てフィレンチェに来たと実感し、胸を躍らせた日がつい昨日のことのように思えた。
 あのときは、こんな風に誰かを愛することになるなど、考えてもいなかった。あの時から今まで、きっとルカは絵のことしか考えなかっただろう。―――レオーネに、会わなければ。
 控え目なノックの音に続いて、アルベルトの声がした。ルカが窓際から歩いていって扉を開けると、老執事は優しい顔をして深々と頭を下げた。
「絵をお持ちして欲しいとのことなのですが。ご足労願いますか」
 それに頷いて、ルカは机に置かれた絵を取ると、お持ちしますと言ったアルベルトの言葉には首を振って、その後を歩いた。
「本来ならば、わたくしは物を申し上げる立場ではないのですが」
 広い廊下の途中で、アルベルトが呟いた。立ち止まって、手を胸に当て目を伏せて、それから再び口を開いた。
「レオーネ様の心を取り戻していただけたことを、僭越ながら心より感謝しております。これから、お二人にとっては決して優しい道が待っているわけではないでしょう。ですが、わたくしは何があっても、お二人の味方でいることを、心に留めていただきたいのです」
 静かな廊下に、アルベルトの声は誓いの言葉のように響いた。ルカはただ、ありがとうございます、と頭を下げることしか出来なかった。
 レオーネの周りには、こうしてレオーネを思ってくれる人たちがいる。ロレンツォも、ジュリアーノも、このアルベルトも。そして、だからこそ、自分は受け入れられたのだということを忘れずにいよう、と思った。それは一重に、レオーネのおかげなのだ。
 初めて屋敷に通されたときにロレンツォと入った執務室の隣に、ルカは連れてこられた。扉を開けたアルベルトに促されて中に入ると、少しばかり渋い顔をしたレオーネと、若々しさに気品を湛えながらも人好きのする笑顔をした青年がいた。ロレンツォの弟というには、あまり似ていない。もちろんそれは最初の印象の話で、実はしっかり二人は兄弟なのだと、ルカはあとで認識する羽目になるのだが。
 ルカは絵を持ったままだったが、膝を折って挨拶をした。
「初めてお目にかかります。フェルディナンドの工房で修行をしております、ルカと申します」
 ジュリアーノは目を細めてその様子を見ていた。思った以上に、美しい青年だった。
「お目にかかれて光栄です。ジュリアーノ・ディ・メディチです。どうぞお立ちくださいますよう。そして、絵を見せていただけませんか」
 ジュリアーノはそうすっと白く長い手を伸ばした。そしてルカに立ち上がるようその手で促しながら、絵を受け取った。
 ほうっと、その口から感嘆のため息が洩れた。
 見たことのない、肖像画だった。構図はありふれている。だが、その表情の豊なことにジュリアーノは感嘆したのだった。
これも絵というものの持つ力なのだと、初めて知ったのだ。
 レオーネが絵さえも見せたがらなかった理由を、ジュリアーノは知って、思わず微笑んだ。
 これは、確かにあまり他人に見せたいものではないだろう。レオーネの、もっともレオーネらしい、姿だったから。
「なるほどこれは……」
 ジュリアーノはそう言ったきり、絵を食い入るように見つめた。この絵だからこそ、レオーネは心を開いたのだ。
 しばらく、沈黙が部屋の中を漂っていた。やがてレオーネが気恥ずかしさに耐えられなくなるまで、その静かな時間は続いた。
「ジュリアーノ、もういいだろう」
 レオーネがそう言って絵を取り上げる。ジュリアーノは逆らわずに絵を手放しながら、ルカに向かってにっこりと微笑んだ。
「こんな風に人間が描けるとは、知りませんでした。あなたに是非、描いて欲しい人がいる」
 ジュリアーノの申し出に、ルカははっと伏せていた目を上げた。ジュリアーノからの注文ならば、高額の注文となるだろう。それに、メディチ家の庭には素晴らしい彫刻が所狭しと置いてあるという。それを見る機会も得られるかもしれない。
「ありがたいお言葉でございます。その折には、及ばずながら誠心誠意、描かせていただきますゆえ、どうぞよろしくお願いいたします」
 ルカがそう膝を折ると、ジュリアーノはそのルカの手を取って立たせると、まるで親しい友人にするように抱きしめた。
「メディチの家にも是非いらしてください。ほとんど兄が集めたものですが、彫刻も絵画もあります。ご要望でしたら部屋も用意させますから、心ゆくまでそれらを見ていただいてもいい」
 ただし時々、自分の話し相手もしてもらえると嬉しい。
 ジュリアーノはそう付け加え、お別れの挨拶にと頬に口付けさえした。
 こうなってくると、ルカはただ驚いて身を任せるしかなかった。相手はいまやフィレンチェを事実上手に入れているメディチ家の次男である。その丁寧な言葉遣いも、親しみを込めた態度にも、感激しつつも驚くしかなかった。
 隣で、レオーネが今にも怒り出しそうな気配など、察することも出来ずに。
 もちろん、それをわかっていて必要以上にルカに接近したジュリアーノは、レオーネの歯軋りさえ聞こえてきそうな様子を存分に楽しみ、そして腕の中でほんのり赤くなっている美しい青年に目を細め、ようやく満足したようにルカを解放した。レオーネの怒りが爆発する前に、退散しなければならない。
「それではまた近いうちに」
 ジュリアーノはルカにそう言うと、レオーネに挨拶もせずに逃げ出した。今にも、レオーネが飛び掛ってきそうな気がしたからだ。


「レオーネ?」
 ひどく不機嫌に顔を歪ませているレオーネに、ルカは首を傾げた。ルカにして見れば、ジュリアーノの申し出は願ってもみないことだった。メディチの所有する芸術品を見ることができるだけでも貴重な体験だ。
「アルベルト」
 レオーネの感情を押し殺した声に、アルベルトは内心苦笑しつつ、優秀な執事らしく平素の調子で「はい」と返事を返した。ジュリアーノ様も人が悪い、と思いながら。
「今日は何か重要な予定は入っていただろうか」
 どんな予定が入っていようとも、この主はなんとか誤魔化してしまうのだろう。そう思いながらでも、アルベルトは少しばかり考える振りをした。そして、結局は主に甘い執事は、その願いを聞き入れることにしたのだった。
「どうしても動かせない予定はなかったと思われますが」
「それならば今日は休むことにする」
 簡単にそう言ったレオーネにびっくりしたのはルカだった。だが、アルベルトは頭を下げて了承の意を告げ、静かに部屋から出ていった。
「レオーネ……?」
「ルカも今日はもう用事などないのだろう?」
 ぐいっと引っ張られて、ルカはレオーネの腕の中に収まった。ぎゅっと抱かれ、髪に口付けられる。
「えーと……うん、特にこれといっては」
 温かくてやさしい腕に抱かれて、ルカは頷いた。
 これからまだまだ時間はあるけれど。
 とりあえずは、会えなかった時間を埋めるために、今日一日を潰す決心を、二人はしたのだった。


 レオーネはルカに貰った絵を、自室の鍵のかかる部屋に飾った。それでは見えないのに、というルカに、あの絵だけは自分だけが見られればいい、と言った。
 ルカもレオーネに貰ったあの絵を、他人に見せびらかす気はない。なんだかとても、気恥ずかしいのだ。
 二人はきっと、墓まであの絵を持っていくのだろう、と笑い合った。



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