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あふれ出る言葉など何の役にも立たない
17
二人が体育館に入ると、みんなが一斉に振り向いた。右はそれにびっくりして思わず芳明の後ろに隠れ、芳明を苦笑させた。
「部長は?」
「遅せーぞ、ホウメイ」
海田も苦笑しながら、ひらひらと二人を呼び寄せる。それを合図に、みんながその前に集まった。いつもなら、副部長の松宮が大声で呼んでも、こうも綺麗には集まらない。
「いつもこんなんだったら楽なのに」
そう呟いた松宮に、海田と芳明が笑う。右はその後ろで小さくなっていた。芳明はとりあえず部長の海田と副部長の松宮に、右を素早く紹介する。
「よろしく。で、ホウメイ、紹介」
「俺がですか?」
「だってほら」
海田が顎で指した先には、右が縮こまっている。
「右?」
「だってさ……」
びっくりしたんだけど、と右が呟く。確かに、一斉に注目されたのは怖かった、と芳明も思う。
「ほら、自己紹介」
そっと押し出すと、縋るような目をされる。参ったな、と芳明は苦笑した。
「みんな歓迎してるんだって。学年とクラスと名前でいいから」
それさえ必要ないのだが、挨拶は大切だ。ほら、と芳明に言われて、右はぺこりと頭を下げた。
「1−Aの杉本右です。よろしくお願いします」
背中に芳明の手の感触を感じていて、右はなんとか微笑んだ。元来、人見知りは激しいのだ。今まではそれを全部微笑んで済ませていたのに、最近はそれが出来ない。困ったな、と右は思っていた。
「はい、こちらこそよろしくね。みんなの顔と名前は追々覚えればいいから。俺は副部長の松宮裕史。わからないところは俺か、マネージャーに聞いて。とりあえず今日は基本的なところをマネージャーに教わって貰おうと思うんだけど」
松宮がふわりと微笑みかける。それに右は少しほっとした。繊細な感じの人だ。
「ほら、ランニング始めるぞ」
自分も自己紹介を、と殺気立ったような部員に、海田が容赦ない声をかける。文句が出そうなところで、海田が睨むと、みんな吐息を吐きながらも走り出した。芳明もそれに加わって、消えた手の感触に右はどこか心細くなる。
それでもマネージャーの先輩方は優しく、丁寧に仕事のことを教えてくれた。思ったより大変そうだが、やりがいはある。こんな風に何か一つのことに向けて一緒に頑張ると言うのは、右はあまり体験したことがない。それも、芳明も一緒なのだ。それがまず嬉しいと右は思った。
正マネージャーの折田に、休憩のドリンクを一年に配ったら休憩にしていいよ、と言われて、右はどうにか芳明のドリンクを最後にしようと頭を巡らせた。幸いなことに、芳明は端のほうに坐っている。
部室や体育館内の設備、基本的な流れ、これからのスケジュールなどを聞きながら、時おり右の視線はコートに向いていた。節句対決のときに芳明のプレーは見ていたのだが、そのときと同じ、吸い付けられる感じだ。ふわっと飛んだ芳明に、どうしてあんなに高く飛べるのだろう、などと詮のないことを考える。考えながら、でもその姿が瞼に焼き付く。
どさりと長い足を投げ出して坐っている芳明に、右は「はい」とペットボトルを渡した。
「右も休憩だろう?」
戻らないと駄目かと一瞬考えた右に、芳明が隣に坐るように促す。それにほっとして、右は頷くとそっと坐りこんだ。
「どう?」
「うん、先輩達優しいし、大変だけど楽しい」
右がそう言うと、ごくごくとスポーツドリンクを飲んでいた芳明がちらりと横目で右を見て笑った。
「優しい?俺たちには鬼のマネージャーなのになあ」
にやりとそう笑う芳明のペットボトルには、「ホウメイ」と書いてある。すっかりその名前が定着してるんだな、とそれを見ながら右は思った。そうやって意識を逸らさないと、顔が赤くなりそうだった。
さらされた喉や、ちらりと動いた目に。
「飲む?」
ふいに聞かれて、右は目をぱちりと瞬かせる。
「いや、じっと見てるから。マネージャー業だって喉乾くだろ?」
「あ、うん」
それから、差し出されたペットボトルを受け取る。ものすごく喉が渇いていたわけではないのだが、一口だけ貰うことにした。言葉が、上手く出てこない。
「もういいのか?」
「うん、ありがと」
答えた途端、これもよかったら、と芳明の隣から次々と手が出てきた。
「あー、先輩方、邪な考えしないように」
「なんだよ、ホウメイが独占してるのが悪いんだろ?」
「みんなが最初に怖がらせるから。俺も正直びびりましたもん」
「おまえがそんな玉かよ」
先輩の一人が笑ってごんっとペットボトルで芳明を叩いた。それに、叩かれた方は大げさなほど痛がって見せる。
部活中の芳明は、どこかいつもと違う。見ているとわかるが、先輩達に少しだけ甘えているようなところがある。いや、先輩達が甘えさせてる、と言った方がいいのか。
右は少し呆気に取られながら、そのやり取りを見ていた。
少しだけ、羨ましいと思う。
自分は、甘えてばかりだから。
「こういったら悪いけど、思ったより使えるよ」
折田の言葉に、芳明は苦笑した。確かに、一見儚げで、頼りなさそうなのが右だ。でもその実芯は強く、柔らかいことを芳明は知っている。
先輩マネージャー二人が今日の紅白戦で使ったユニフォームを洗っているところに、芳明は顔を出していた。コートの掃除は八重樫に頼み込んで代わってもらった。右は初日と言うことで、解散の声とともに帰している。
「細かいところに気が付くし、ちゃんと考えて行動する」
「洗濯の量に驚いても、最後まできちんとやりましたしね」
二年のマネージャー、辻野もそう頷いた。
「何しろ部員の士気が違うし、言わないでも手伝うし」
「そうそう、一年とかうろうろ煩いぐらいだよ」
先輩マネージャー二人がそう言って苦い笑いを零した。いや、折田はどちらかというと人の悪い笑みを浮かべている。
「じゃあ……」
芳明が折田を見ると、合格だろう、と言ったので、芳明はほっと息をついた。右なら大丈夫だろう、とは思っていたが、やはり多少の心配があったのだ。
「なんだー、ホウメイ?夏の間離れがたくてマネージャーに引っ張り込んだ、って噂は本当か。ふーん」
「折田先輩?なんですそれ」
「いーや。なんでもない」
「そういうんじゃないですよ。あいつ……杉本もなんか事情あるみたいで。家に帰りたくないらしいんです。それで部活にでも入るかって言うから、誘っただけですよ」
「それは杉本の都合だろう?ホウメイは?」
「人手が足りないって嘆いてるマネージャーの先輩方の手助け、じゃないですか」
洗いあがった洗濯物は、部室の屋上に並ぶ物干しに干すことになっている。芳明は言われる前にその洗濯籠を持ち上げて、手ぶらで歩く折田の後を追った。辻野がその隣でもう一つの洗濯籠を持っている。
「それ、杉本に言ったらかわいそー」
辻野がそう笑う。でも、芳明は首を傾げた。かんかん、と外階段を昇る。
「誘うときに事情は説明しましたから、似たようなこと言いましたよ?どうして可哀相なんですか」
芳明にしてみれば、右が気兼ねなく入部できるように、という配慮もあった。それなのに、なぜ可哀相、なのだろう。
屋上についた辻野と折田は顔を見合わせて、呆れたようにため息を吐いた。たった一日だ。それだけしか見ていなくても、右の芳明への懐き具合はわかる。初めてのことで、さらには先輩だから、と自分達相手に右が緊張しているのはわかる。でも、見ていると他の一年にもかなり距離をおいているのがわかるのだ。それが、芳明の前になると、途端に安心しきった猫のような顔になる。あの鮮やかな笑顔は見物だった。もちろん、芳明もまんざらではなさそうで、それを可愛がっている感じだった。
ありゃー出来てるだろう、と誰かが言ったのに、誰も反論できなかったくらいだ。ただ、多少は詳しい一年に、それはまだない、と断言されたが。
「おまえも杉本も、なんだかわからなねーな」
折田がそう言うと、芳明はまた首を傾げる。それでも手だけは動いているのだから感心だ。
自覚がないって言うのは恐ろしいこった、と折田がぶつぶつ言うのに、辻野は苦笑している。芳明は先輩達が自分達をからかうのを一種の生き甲斐にしていることを知っているから、それを見ても肩を竦めただけだった。
それから部屋に戻ると、右はよほど疲れたのかベッドにうつ伏せに倒れていた。ジャージのままで、すやすやと眠っている。
「おい、風邪ひくぞ」
夏と言えども、あの暑い体育館の中にいて汗をかいた後だ。芳明が笑いながら揺り起こすと、ぼんやりとその目が開いた。
一瞬、どきりとする。
焦点の合わない目は、ひどく透明な気がした。
「お疲れさん。初日で疲れたのはわかるけど、シャワーも浴びないで寝たら風邪引くぞ?」
内心の動揺は隠して、芳明がそう言うと、まだぼんやりしたまま右は起き上がった。
「ああ、ちょっと横にって思っただけなのに、寝ちゃったのか……」
「疲れたんだろ」
「うーん……でも、楽しかった」
ふわり、と右が微笑む。その心の奥底から自然に出た笑みに、芳明は目を見張った。今までにも、何度も作り物ではない笑顔を見たと思っていた。でも、こんな顔もできるとは。
「何?」
固まったままの芳明に、右がようやく覚醒したのか不審な目を向ける。それに、なんでもない、と言いながら芳明は知らず自分の顔を撫でた。
どうかしてる。
「とにかく、シャワー浴びて来いよ。それから飯に行こう」
「ホウメイは?」
「今日はちょっと遅くなったから、向こうで浴びてきた」
ほら、と言われて、右もようやく立ち上がる。
どことなく、芳明の顔が赤い気がして、右は小さく首を傾げた。
それから、右はすぐに部の中に溶け込んだ。もともと人見知りを隠すことが出来るほど外面はいい。でもそれだけではなく、芳明が安心しきっている空間で、右もまた安心していた。それを右自身、気付いていないわけではない。
芳明がいることに安心し、芳明が信頼しているからと自分も信じる。
まるで幼い子供のようだと右は思う。それでもどうしようもなく、自分の気持ちは芳明に向かうのだ。
でも。
いつまでこんなことを続けられるだろう、と右は真っ青に晴れた空を見た。同じ物を何枚も洗って干す洗濯は妙な達成感があって楽しかった。部室の屋上に、はたはたと色とりどりのユニフォームが風に翻っていた。
貪欲に、右は芳明を求める。目も、心も、耳も。そこにいるだけでいいと、泣きたくなるくらい思うこともある。
それはでも、長く穏やかには続いてくれない。ふざけるように芳明と遊ぶクラスメートや部員にさえ、嫉妬するときもあるし、ふいに微笑まれる顔に切なくなるときだってある。それを誤魔化すように微笑めば、じっと真っ直ぐに見つめられる。責めるのではなく、ただじっと。
その視線に、いつまで挫けずにすむだろう。
どこまでも同じ、空気を吸っている。教室でも、部活でも、部屋でも。
それはとても嬉しいことだった。
でも同時に、切なくて、苦しいことだった。
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