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あふれ出る言葉など何の役にも立たない
18
目を奪われる。
それが今の自分の状況に一番適した言葉なのかもしれない、と芳明は思った。あの日、右が寝惚けて無防備なまま見せた笑顔。それをもう一度見たくて、視線が右を追う。ほとんど一緒にいるのだから、追うというのも可笑しいかもしれないが、以前より視線が行く回数が増えたのは確かだ。
こうして部活をしていても、つい探してしまう。
毒されたか、と芳明はため息を吐いた。くたりとそのまま前に倒れるようにすると、柔らかいなー、と後ろから正衛の感心した声が聞こえた。背中に置かれた手にはほとんど力が入っていない。
「ほんと、顔に似合わず柔らかいよな」
「なんだ顔に似合わずって」
そのまんまだろ、と正衛は言って形だけはとその背中を押す。両手のそれが片手だけの感触になって、芳明はくぐもった声で「真面目にやれ」と言った。
「俺の手なんか必要ないじゃん。それより……右、何探してんの?」
ふいに言われた名前に芳明が顔をあげようとすると、ぐいっと背中を思い切り押された。突然のことに、文句を言おうにも声も出なかった。
「副部長は?」
「ああ、部長を取り戻しに執行部に行ったよ」
両足を広げた状態で押し返そうとしても、思い切り体重をかけてくる正衛に敵うはずもない。芳明はばんばんっと抗議の意味を込めて床を手で叩いた。
「すげえ。ホウメイ柔らかいな。でも床叩いてんの何で?」
痛いわけ?と右が首を傾げるのに、正衛は力を緩めないまま笑った。
「正衛っ。てめえいい加減に……」
「何?真面目にやれって言ったのはホウメイじゃん?」
それからますますぐいっと力を入れられて、芳明はまた床を叩いた。背中で、おもしれー、と正衛が呟いたのが聞こえる。それを見て、右がくすくすと笑った。
「いじめてんの、もしかして」
「ん?うーん。っていうか、可愛がってるだけだけど」
どこがだっ、と間髪いれずにホウメイが叫んだが、正衛はまだ力を緩める気はないらしい。
「なんだよ。そんなに右の顔見たいわけ?」
からかいどころはこれからだ、とばかりの声で正衛が言う。それにぴくりと掌の下の筋肉が震えた。
「馬鹿言ってんじゃねーよ。次に進めよ次に」
それでもそんなことを言ってくる芳明に、正衛は「可愛くねーなあ」とため息をついた。右はそれを少し困ったように見ていたが、なんだか居たたまれなくなって、副部長を探してくる、と走っていってしまった。
「正衛、何考えてんだよ」
ようやく離れた手から身を起こして、今度は左足に向かって身体を曲げる。律儀なものだと正衛は思うが、今度ばかりは真面目に背中を押した。遊んでばかりいたら、周りから遅れてしまうからだ。
「いや、別に」
「別にって感じじゃなかったけど」
これだけ身体を曲げて喋るのは苦しくないのだろうか、と正衛は思いながら「だから、可愛がっただけですよ?」と言った。
「あれのどこが」
「いやあ、だってホウメイくんってば可愛かった」
うんうん、と言いながらにやりと笑っている正衛の顔は芳明には見えない。正衛にしてみれば、色々完璧な芳明が、右のことになると右往左往しているようなところがあるのが面白い。面白いが、じれったくもある。以前は二人のことは部活外でしか見ていなかったが、今は部活でも見るようになって、苛々するのだ。なるべく、自分には関係ないといい聞かせてはいるものの。
「可愛いって……嫌がらせか」
「だから、違うって」
「嬉しくない。これっぽっちも嬉しくない」
芳明がそう言いながら、正衛の番だと立ち上がった。
「まあでも、それなら俺もおまえを可愛がってやろう」
そうにっこり笑った芳明に、正衛は失敗した、と思う。自分がまだ柔軟をやっていないことを忘れていた。
「お手柔らかに」
そうは言ってみたが、これは徹底的に伸ばされるだろう、と覚悟をしなければならなかった。
夏休みに入ると、芳明と右の生活は部活が中心になった。と言ってもコートが一日中使えるわけでもなく、練習は午前か午後のどちらかであることが多い。ただ一年は、食事当番が待っている。街に買出しにも行くし、真面目に宿題をするときもあった。
宿題は手分けをしようという話がすぐにまとまったが、ぐるぐる回すうちに間違いも指摘され、なかなかに勉強になっている。教科によっては手分けの出来ないものもあったが、なんとなく皆で勉強の時間を取るようになって、家でやるより余程効率よく勉強していた。
夜にはビデオ上映会をしたり花火をしたり、毎日どこかの部がイベントを催して、それに混ざって遊んでいたから、山の中で退屈するかと思っていたが案外楽しいものだと一年生たちは思った。
芳明は興味がなければ夜は本を読んでいたりする。右も遊びたいときだけ遊んでいた。ただ、芳明に誘われると断ることはなく、周りは右を引っ張り出すには芳明を餌にすればいいとまで言っていた。
授業のない日々は、やはりいつもと少し違う。午前の練習が終わって昼食を食べ、自由な時間になって他愛のない話をしたり、カードやオセロなどアナログなゲームをする時間が、右は好きだった。八月に入ってからは芳明がどこからか貰ってきたチェスに嵌って、チェス盤が常にテーブルの上にあった。やったことのなかった右は芳明に教わったので、最初は相手にならなかったが、数を重ねるうちにときどきだが勝てるようにもなった。
「ふーん……」
その日は圭一と基一が遊びにきていて、テーブルに乗ったままのチェス盤を見ていた。芳明は電話が掛かってきていて、内線の電話で話をしている。携帯は持ちたくないといういまどき珍しい主義で、電話は全て玄関口にある内線で受けているのだ。
「あ、動かすなよ。まだ途中なんだから」
「どっちが右なんだ?」
「……さあ、どっちでしょう」
にやりと笑った圭一の顔に嫌な予感がして、右もにやりと笑い返した。なんだか負けるといわれそうな気がしたのだ。自分としては、このままなら勝てそうだと思っていた。勝負は昨日の夜からついていない。今日の午前中に練習があったから、昨晩は十時で勝負は一旦お預けとなったのだ。
「勝負を俺たちに預けろよ。続きをやってやる」
基一がそんなことを言う。右は「嫌だよ」と笑った。
ああ動かしたい、と困ったことを言っている基一を横目に見ながら、右は玄関口を気にしていた。低い声で話している芳明の声は聞こえない。というより、一方的に相手が話しているのか、芳明自身はほとんど口を開いていない。ただ、このところ毎日のようにそんな電話が掛かってきていて、その度に、芳明の顔が険しくなるのを右は知っていた。
芳明は、何も言わない。人の悩みは聞くくせに、自分のことは決して言わないのが芳明だった。右は心配で堪らないのだが、その拒絶するような芳明の雰囲気にいつも何も言えないのだった。
「深刻そうだな」
ふと基一がちらりと芳明を見ながら呟いた。圭一も、いつの間にか芳明を見ていた。
「もしかして、電話毎日?」
「え?ああ、うん。そうみたい」
基一達は何か知っているのだろうか、と右は思った。自分より余程頼りになる二人だ。何か相談するなら彼らにするだろう、と考えたら、途端に悲しくなった。
自分はこれほど芳明に囚われ、寄りかかっているのに、いざ顔を上げると芳明はいつも遠くに立っている。右は寄りかかるだけで、その身を支えることは出来ないのだ。
「たぶん家からだろう?大変だな、あいつも」
基一の言葉に、何か知っているのか、と聞こうとした右の言葉は、芳明が電話を終えて振り返ったために飲み込まれた。この電話の後はいつも、険しく疲れた顔をしている。
「悪いな」
芳明はそう言って、どさりとソファーに坐った。右はコーヒーがおちたことを確認して、キッチンに向かった。
「ああ、別に構わないけど」
基一と圭一はそれ以上何も言わなかった。芳明が聞かれたくないのだと、何も言われたくないのだと、わかっているのだ。
それよりこのチェスを動かしたい、と基一は喚いた。見ているとうずうずしてしまう。芳明は笑いながら、じゃあ選手交代だ、と言った。キッチンでカップにコーヒーを注いでいた右は、思わず振り向いた。
「ちょっと実家に帰る羽目になったから。しばらく勝負はお預けだ」
芳明は軽い口調とは裏腹の、ひどく硬い声で言った。
「しばらくって?」
カップをテーブルに置きながら、右が聞く。でも、芳明は「なるべく早く戻って来たい」と言っただけだった。
そもそも夏休みなのだから、実家に戻ることは何の不思議もない。でも、右はどこか不安な思いで芳明を見た。
じっと、窓の外を芳明は見ていた。その遠い目に、右の不安は膨れていく。
帰ってくるだろう?
そう、聞いて確かめたかった。当たり前だろうと、笑う顔が見たかった。
でも、それを言葉にするのが躊躇われて、右は結局「そっか」と言えただけだった。
芳明は家のことは決して話さない。右も、聞いたことはない。基一から大きな会社組織を持っている家だとちらりと聞いたことがあったが、それ以上は聞かなかった。
芳明が話してくれる日を、待とうと思ったのだ。
でもきっと、芳明は何も言わずに行ってしまうのだろう。
右はきゅっと口を結んで、泣きそうな顔を歪めた。
自分が求める気持ちに、相手に答えて欲しいと思うのは傲慢なことだ。それでも、かけらでもいい、その思いが通じないかと、切実に右は思ったのだった。
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