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あふれ出る言葉など何の役にも立たない

19
「うん、元気。え?大丈夫、大丈夫。ちゃんと食べてる」
 右の電話の声が静かな部屋に響いた。外は細かな雨が降っていて、余計に静けさを感じさせる。
「本当に?あなた全然料理なんか出来なかったじゃない」
 母の心配そうな声が電話から漏れた。実家からの電話は、夏休みに入ってから一週間に一度は掛かって来ている。帰って来ると思っていた息子が、急に帰らないと言ったのだから当然かもしれない。でも、今更だと右は思う。
「ねえ、お盆にも帰ってこないつもりなの?あの子、淋しがるわよ」
「十二日には帰るよ。うん、一週間くらいはいる。え?無理無理。大会が近いって言っただろう?そりゃあ、俺は出ないけど、やることは一杯あるし……。宿題とかも、みんなで時間設けてやったりしてるから、いつもよりはかどってる。うん、うん……そうだね」
 いつもお姉ちゃんに見てもらってたものねえ。微笑を含んだような母親の声に、右は素っ気なくならないように気をつけながら、相槌を打つ。坐ったベッドの上から、窓に伝わる雨が見えた。
 右は先刻から、電話を切るタイミングばかり考えている。だが、姉の話が出てきてしまっては、少しばかりそれに付き合わなければならなくなった。右は電話に吹き込まないように気をつけながら、小さなため息を吐いた。
 姉が亡くなったのは、一年ほど前のことだ。まだ真夏にはなっていなかったのに暑い日で、それなのに異様なほどに冷たかった手を覚えている。
 十五歳まで、もたないといわれていた。それが三年も延びたのは、一重に両親の愛情のおかげだろう。一日二十四時間、三百六十五日、杉本家の生活は、彼女を中心に回っていた。もちろん、右にとっても同じ事だった。
 それを全く不満に思ったことがないと言ったら、嘘かもしれない。でも、その彼女の中心は――弟だった。いつもいつも、彼女は右のことを考えてくれた。可愛がってくれた。両親から貰えなかった愛情を、右は姉から貰っていた。
 その両親の愛情が、ようやく自分に向いたのは、姉が亡くなってからというのは皮肉すぎると右は思う。第一志望として問題なく決まっていたこの学校に入ることさえ、一時は大反対された。
 帰っても、姉の部屋はそのままなのだろう。それを見るのも、右には辛かった。右にとっても、姉はとてもとても大きな存在だった。
「早く帰っておいで。右の好きなもの作ってあげるから。ねえ、あんたは何が好きだったかしらねえ」
「なんでもいいよ。母さんの作るもんなら」
「これだから男は嫌よねえ。父さんもいつもなんでもいいって言うけど、作る方にとっては困るのよ、それ」
 まったく、と緩やかなため息が吹き込まれる。右は「じゃあ唐揚げ。唐揚げが食べたい」と言った。
 そんなもんでいいの?と母親が笑う。張り合いがない子だねえ、と言いながら、頭の中では既に何かしら計画を考えているようだった。右はこれを逃してはいけない、と慌てて言葉を繋いだ。
「じゃあ、楽しみにしてる。あのさ、これから友達と一緒に宿題する約束してるんだ。悪いけど、切るね」
 ごめんね、じゃあね、と畳み掛ける。母親は不満そうな声で「仕方ないわね」と言った。
 右はもう一度、じゃあ、と言って、携帯電話を切った。電源も落として、足元に放り投げる。
 電話中には十分に吐けなかった盛大なため息を、右は今度こそ遠慮なく吐き出した。なんだかひどく疲れた気がして、ぽすりとそのままベッドの上に寝転がる。
 ――あの子も、淋しがるわよ。
 少し高目の母親の声が蘇る。姉が亡くなって一年経った今でも、母親はまるで彼女がそこにいるように話す。本人は気付いていないに違いない。だが、彼女が永遠の眠りについたことは、きちんとわかっているのだ。淋しがると言うのも、墓参りのことだろう。
 受け入れ切れていないのは、自分の方なのだろうか、と右は思う。母親にそう言われるたびに、本当に姉が自分を待っているような気がしてしまう、自分の方なのか、と。
 姉が亡くなったとき、右は泣けなかった。ベッドの上の死顔はとても綺麗で、眠っているのとまるで変わらなかった。右が生まれたときには、もう病院にばかりいた姉だから、家の中にいなくてもその不在を感じることはなかった。病院に行けば会える。そんな気がして、ならなかった。
 ――じゃあ、会えるのかもしれない。
 そう言ったのは芳明だ。きっかけは思い出せないが、姉の話になったとき、右は親との微妙な関係には触れずに、姉のことだけを話した。いつもは必ず、聞いている人間を安心させるために、大丈夫だから、という微笑を浮かべているのだが、芳明にそれは通じない。話し終わった右の頭をぽんぽんっと軽く叩いて、その微笑を浮かべたのは、芳明の方だった。
 ――今度、紹介しろよ?
 芳明の真意はよくわからなかった。でも、右は頷いた。
 ――大丈夫だよ。泣けなかったのも、いまだに泣けないのも、悪いことじゃない。
 右がどんな顔をしていたのか、芳明はとても優しい目をしていた。大丈夫。そう言うのは、いつも右の方だったのに。両親にも、姉にも、周りの人間にも、大丈夫と平気の言葉を繰り返し、笑顔を見せ続けたのは、右なのに。
 顔を横に向けると、雨が窓を流れていた。霧のような雨が、溜まってはつっと落ちる様子は、母親がいつも姉の遺影の前で見せる泣き顔を思い出させた。
 自分の溜まった感情は、いつ流れ出るだろう。それとも、そもそも感情などないのだろうか。
 それを考え始めると、右はそこから抜け出せなくなってしまう。ぐるぐると、出ない答えを探し続けてしまう。
 ――大丈夫。
 そう言ってくれる、芳明に会いたかった。ぽんぽんっと頭を叩いてくれる、あの手が恋しかった。
 芳明が実家に帰ってから、一週間が経っていた。


 いつ来ても生活感がない家だと思いながら、芳明は窓から見える庭を眺めていた。窓を開けて、そこに腰掛けて外を見るのは、芳明の昔からの習慣のようなものだった。何も考えたくないときに、そうして空や庭をただ眺めていた。そして、庭を見るたびに思う。専属の庭師もいるこの庭は、一体何のために作られているのだろう。誰も、咲き誇る美しい花や木々を愛でる暇などないだろうに。
 つまり、庭はただの飾りでしかないのだ。それはこの家も同じ事で、暮らしていくための家だとは到底思えなかった。
 九つのときにこの家に連れて来られてから、芳明はここを自分が住む家だと思ったことはない。同じように、ここに住む人間の誰も、芳明が家族だと考えたことなどないだろう。
 自分が九重に行ってから、変わっていない様子の部屋がおかしかった。もう二度と戻らない覚悟で出た自分を迎える部屋など、ないと思っていた。それなのに、こげ茶の机も、立派なベッドも、そのままだった。
「芳明様、よろしいでしょうか」
「嫌だと言ったら、聞いてくれるんですか」
 ドアの外から聞こえた声にそう答えると、一瞬沈黙があった。それから、そっとそのドアが開いて、申し訳ありませんが、と同じ声が言った。
「テーラーが待っております。こちらに案内しても構いませんか」
「いえ、俺が行きます」
 立ち上がって窓を閉める。冬場であっても良く窓を開けたのは、ここが息詰るところだったからだろう。もう、戻ってくるつもりはなかったのに。
 先に立って歩く男のことは、池内と紹介された。芳明の身の回りの世話も含めた秘書なのだそうだ。この家の人間は、いつだって余計なものしか与えないと芳明は思う。いつだったか、珍しく祖父が贈り物をしてくれたことがあったが、それは野球道具だった。当時からバスケットやサッカーに心惹かれていた芳明は、それを持て余したものだ。
 池内は二十代後半か三十代に掛かる頃だろう。ぴしりと伸びた背中は厳格さと忠実さを表しているようで、芳明はそれを諦め気分で眺めた。秘書など必要ない、木田の家とは縁を切りたいのだとはっきり言ったというのに、祖父はそれを決して許さなかったし、この池内はただ忠実に秘書業をこなした。
 連れて行かれたのは、広い応接室だった。木田の家は無駄に広い。客室も決して埋まったことなどないだろうが、息子夫婦のための部屋も、その孫のための部屋も、使われたことはなかったはずだ。その上、後継ぎとしてこの家に入った祖父の甥もまた、病気で亡くなった。脳卒中だったというその人物の死は、芳明を再びこの家に呼び戻した。
 まだ若いのに。
 その人物のことを芳明はほとんど知らなかったが、生前一、二度話をしたことがあった。「頑固の見本みたいな人だから、君にどう接していいのかわからないんだよ。馬鹿みたいな正義感もあるから余計に」祖父のことを、その人物はそう言っていた。木田の人間にしては、話しやすかったことを覚えている。出来ることなら、もう少しだけ話をしてみたかった、と芳明は今になって思う。
 享年を訊いてみれば、まだ四十という若さだった。
 芳明にとって不運だったのは、彼には子供がいなかったことだ。あまり多産の家系ではないのか、芳明も父も兄弟はいない。木田会長が直系の男子に拘る限り、残ったのは芳明だけだった。
 時代錯誤だ、と芳明は言った。そう思うなら、自分のときは好きにすればいい、と祖父は言った。だが、自分も好きにさせてもらう。
 下を向いてため息を吐いたところで、もう少し我慢していただけますか、と頭を上げられた。テーラーの真っ白の髪が目の前で揺れる。色々なところを測るテーラーの手は淀みない。だが、芳明はあまりいい気がしなかった。身長、胴回り、手首、首周り、と余すところなくメジャーが当てられ、自分の偽物でも作られるのではないかと、馬鹿みたいなことを考えた。
「シャツはとりあえず五枚ほど。そうですね。若いのですから薄い色が入っていてもいいかもしれません。芳明様、好みの色はございますか?」
 ふいに言われて、芳明は池内を見た。意見を訊かれるというのが不思議だった。そもそも、シャツもスーツも要らないという意見は無視してくれているのに。
「むらさき」
 嫌味に言ってみたら、池内は口元を歪めて小さく笑ったようだった。
「生地のこともありますし、見本を見せていただけますか。ええ、スーツの方も。秋物と冬物も作っておきたいので、その用意もお願いいたします」
 芳明はうんざりとしていた。何もかもが、勝手にどんどん決まっていく。自分はまだ、祖父の後を継ぐとは一言も言っていない。池内も祖父も、そんな芳明の気持ちより、物理的に間に合わない事項を優先させている。
「立派な身体をしていらっしゃる。坊ちゃん、何かスポーツでも?」
 言われて、芳明は僅かに目を伏せた。バスケットをしています。答えた声は、どこか苦々しく響いた。
 現在形でいいのかどうか、芳明にはわからなかった。木田を継ぐために、バスケは止め、九重からも転校して近場の名門校へ入れと言われている。もちろん反抗したが、書類のことになると芳明は弱い。保護者はあくまでも、祖父なのだ。
「さあ、終わりました」
 テーラーは細い身体をしゃきりと伸ばして、お疲れさまでした、と頭を下げた。芳明も「お世話様でした」と頭を下げた。年を感じさせないてきぱきとしたその動きも穏やかな笑顔も、芳明に母方の祖父を思い出させた。
「おやおや、お祖父様には似ていらっしゃらない、ずいぶん腰の低い方ですな。お辞儀も美しい」
 祖父に対するその言いように、芳明はちらりと池内を見たが、彼は気にしていないようだった。生地のサンプルを熱心に見ている。
「芳明様、夏、秋、冬用と、とりあえず一通り生地を決めていただけますか」
「ああ、池内さん、秋はともかく冬用はもう一度測らせてもらえないかね。もちろん生地は選んでもらっても構わないがね。この年頃の少年は、驚くほど成長が早いものだ。冬には身長も筋肉も違うだろう」
 そうですね、と池内は頷いた。
 芳明は、その二人にため息を吐きたくなって我慢した。次なんて、あってもらっても困る。その上、その次回の採寸のとき、どこもかしこも筋肉が落ちて小さくなっていたなんてことには、なりたくなかった。


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