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あふれ出る言葉など何の役にも立たない

20
 芳明は結局、一週間が過ぎても寮に帰って来なかった。その代わり、保護者代理と名乗る人物が学校を訪れ、恐ろしい噂を落としていった。
「基一、きーち!」
 428号室のインターホンを連続して押し、ドアをどんどんっと叩くと、かちゃりとドアが開いた。
「右?どうした」
 ホウメイが、と右は言ったきり、口を閉じた。基一はその様子に察したのか、中に入るように促した。
 ただの噂だ、と思っても、右は確かめずにいられなかった。そして、何か情報を得られるとしたら、基一しか浮かばなかった。
「右にまで噂が回ってるのか?」
 言いながら、香ばしい日本茶を出してくれたのは圭一だった。
「圭一も聞いたんだ」
「運動部はね、独自に情報網があるから」
 自分たちの部屋には緑茶はない。ペットボトルなら飲むのだが、右も芳明も急須で淹れることはしない。第一、美味しい緑茶を飲みたいなら、ここに来るのが一番だ。
「それを言うなら、右だって今やそのネットワークに入ってるだろう?それも同じ部活ならもっと速い」
「……まあね。右は部で聞いたのか?」
「部活でって言うか、部員から」
 それも、たまたま通りがかりに聞いて、八重樫を問い詰めたのだった。そう考えると、ネットワークに入っている、とは言えないかも知れない。
「な、基一、本当なのか?」
 出された緑茶に手もつけず、右は顔を上げて基一をじっと見た。基一は緑茶をずずっと啜って、少し困ったような顔をした。
「転学の書類を持っていった、っていうのは本当らしい。退寮の手続きもしたって言われてる」
 ぞわっと肌が粟立って、右は自分の腕を摩った。いなくなる。芳明が、いなくなるかもしれない。
「右……大丈夫か?まだ、決まったわけじゃないぞ」
 圭一の声に、ただ頷いた。でも、決して安心したわけではなかった。
「あの噂は?あれも、本当なのかな」
 呟かれた言葉に、圭一と基一は顔を見合わせた。どちらが話すか、無言の攻防の末に口を開いたのは圭一だった。
「いや、まあ、あれが一番信憑性のない噂だと思うんだけど、俺は。なあ?」
「うん。俺も噂に尾ひれがついただけだとは思う」
 芳明には実は婚約者がいる――。生徒たちが食いつきそうな、そのいかにもな噂はだが、否定する材料も揃っているわけではなかった。木田家は未だ、旧家的で保守的な、時代錯誤とも言える家風を守っているのだと言う。
 基一はずっ、とお茶を飲んでから、まあとにかく、と声を上げた。
「俺も良くわからないから、無責任には言えないけど……。転校とかについては、たぶん、海田先輩が動くはずだ」
 その言葉に圭一も頷いて、内緒だけど、と口を開いた。
「瓜生先輩も動くみたいだったし、簡単には転校にならないと思う」
「え?まじ?そんな情報入ってきてねーぞ」
「俺も詳しくは知らない。でもまあ、瓜生先輩も今更一年総代を手放すつもりはないみたいだし。どうやらずい分頼りになる先輩方みたいだ」
 右が思わず縋るように見ると、圭一は苦笑した。
「俺が何か出来るわけじゃないけど。先輩の様子からは、大丈夫かな、と思ったよ」
 圭一が判断を間違うことは少ない。そう思っても、右の顔色はすぐれないままだった。
 帰ってきて欲しい。帰ってきて、大丈夫、と言って欲しい。馬鹿な噂だと、あの心底呆れた声で言って欲しい。
 でも、今はただ、その顔が見たかった。
 右は少しも笑えなくなっている自分に、気付いていなかった。


 それから一週間、右は眠れない日々を過ごした。このまま、芳明は帰ってこないかもしれない。そう考え始めると、目が冴えて仕方がなかった。
 だから、芳明が帰ってきたとき、右は今にも泣きそうな顔をして迎えることになった。
「おかえり」
 心の底から右がそう言うと、芳明は少し苦笑して「ただいま」と返した。ここに来るまでに色々な人に言われたのと同じことを、右も考えていたのだろう。
 ――転校するって噂が流れたんだぜ?びっくりしたよ。
 数日前、池内が学校を訪れ、転校手続きをしたと知ったときは、芳明もあまりの横暴さに驚くと共に激しく怒った。あそこまで怒ったのはずいぶん久しぶりのことで、震える手をまるで他人のもののように見ていたのを覚えている。
「おかえり、でいいんだよな」
 右の声は小さく震えていた。芳明は抱き締めたくなった気持ちを抑えて、ぽんぽんっといつものようにその頭を叩いた。
「ああ。転校なんてしない」
 右にはそう笑ったが、そのとき芳明は、ため息をつきたい気持ちで一杯だった。
 久しぶりの寮のベッドで、ほっとしつつも、芳明は眠れずに寝返りを打った。
 このまま九重に預けることにした。祖父にそう言われたのは、昨日のことだ。転校の話を聞かされてから、二日後のことだった。
「――意見を変えたのは、どうしてですか」
「鷹野の会長から電話があった。孫が、おまえに世話になっているとな」
 鷹野という名前に、芳明は覚えがなかった。池内が、その芳明の表情を読んで、口を開いた。
「鷹野グループの名ぐらいは、覚えていただきたいものです」
「それで?その鷹野グループの孫なんて俺は知らないと思いますが」
「そちらに関しては、仕方がないことでしょう。我々も、彼が九重にいると聞いたときは驚きましたから」
「少なくとも、俺は鷹野という名前の生徒に覚えはありません」
「ええ。彼は今現在、鷹野の名を名乗っていません。鷹野を継ぐことが決まった時点で、名前を変えていますので」
「なぜ?」
「……そのうち、芳明様もおわかりになるでしょう。大きな組織を継ぐ人間には、色々な思惑の人間が近づきます。静貴殿はそれを嫌って、高校までは鷹野の名を名乗らず、公式の場にも出てこないことを決めているようです」
 その名前なら、知っている。
 瓜生静貴。自分を面倒な役職につけた先輩の名を、芳明はよく覚えていた。世話になっているとは、皮肉なのか誉め言葉ととっていいいのか。
「その鷹野様の方からご連絡をいただいたと言うことは、芳明様は近づくことを許されたということです。これは今後のことを考えれば、大きな利益となるでしょう」
 誰にとってだ、と言いたいのを堪えて、芳明はぐっと奥歯を噛み締めてその会話を終わらせた。聞きたくもない、組織のトップと言うものは云々と続くのをひたすら避けるためだった。
 結局、芳明は三年の猶予が与えられた。バスケのことも、校長や顧問の話で続けることがまとまった。三年後はどうなるかわからないが――ともかくも、一度は奪われた自由は取り戻せたのだ。他人の力のおかげで。
 芳明は暗闇の中で、ぼんやりと白い天井を見つめた。瓜生に話を持っていったのは、海田だろう。最初の約束通り、顧問も部長も、芳明一人ではどうにもならなくなった今回、助けてくれた。瓜生を始め、彼らにもとても感謝している。だが、その気持ちとは別に、自己嫌悪じみた思いが燻っているのも確かだった。
 自分では、何も出来ない。両親が死んでからずっと、誰かの掌の上で転がされているだけだ。この九重入学が、唯一自分自身が選んだ道だった。
 逃げられない。結局は、逃げることなんてできない。
 いっそうのこと、何もかも捨ててしまおうかと思ったこともある。転校手続きをしたと言われた翌日、木田と言う名も、高校生であることも捨てて、生きていこうかと思った。
 天井から本棚の方に、視線を移す。その向こう、さらに本棚を挟んだところに、右が寝ているはずだった。
 ――おかえり、でいいんだよな。
 震えた右の声が蘇る。大丈夫、という度に縋るような自分を見つめる目を思い出す。
 思い切れなかったのは、右に、そして九重の生活に心残りがあったからだ。自分がいなくなったら、誰にあの目を見せるのかと考えると、堪らなかった。そして、自分は案外ここでの生活を気に入っているのだと気付いた。
 でも、自分がずっと右を見ていることは、できないのだ。
 いつかは、全てを諦めなくてはならなくなる。
 捨てるにしろ、諦めるにしろ、そのどちらの選択肢を選んでも、芳明は一人になるのだ。


 実家から帰ってきてから、芳明はどこかよそよそしい。ついでにいつも、無口だ。もしかしたら苛々しているのかもしれない。夏休みが終わってもそれは変わらず、だんだん悪くなっている気がした。
 右は二人分のコーヒーを淹れながら、ちらりと後ろを振り返った。チェスの勝負は決まらぬまま、共同スペースでの読書もしなくなった芳明は、今はそのほとんどを囲った自分のテリトリーで過ごしている。
「ホウメイ?コーヒー飲まない?」
 とんとん、とパーテーション代わりの本棚を叩くと、「いや、いい」と言う声が返ってきた。右はため息を隠せない。
「あのさ、ちょっとチェスの続きしない?」
 中断から、もうひと月が経っている。芳明が帰ってきてすぐ、今度は右が実家に帰った。芳明のことが心配で、一週間の予定は五日間に縮まったが、そうして両親の懇願も振り切って帰ってきた右に、芳明は「早かったんだな」と言っただけだった。
「まだそのままだったのか。基一とでもやったのかと思った」
 右がそっと中を覗くと、芳明はベッドの上で本を読んでいた。
「なんで。だって、俺とホウメイの勝負じゃん。な、やらね?」
「悪いけど、本読んでるから」
 右は唇を噛み締めて、じっと芳明を見た。芳明はこっちを見ることもしない。
「それじゃあ、いつまで経っても終わんないじゃないか」
 思わず呟くと、芳明がちらりと目を上げた。何を子供みたいな、と言われたようで、右は再び唇を噛んだ。
 いつだって人の気持ちには敏いくせに、どうして自分の気持ちをわかってくれないのだろう。チェスなんてただのきっかけにしたいだけだと、わからないんだろう。
「基一とか圭一とか、やりたいって言ってただろう?まだ十時前だし、呼んでみれば?」
「だから。始めたのは俺たちなのに」
 馬鹿みたいに意地になってる。右はわかっていたが、止まらなかった。
「なあ、何でそんなに俺を避けるの?俺とチェスの続きをするの、そんなにいや?」
 チェスなんて関係ない。でも、右にとっては、あれは穏やかで楽しい思い出だった。真剣にゲームをしながら、いろいろな話をした。思い起こせば、姉の話もチェスをしているときにした記憶がある。
 芳明は小さくため息を吐きながら立ち上がった。それから、右の隣をすっと通り抜けて、テーブルの上にずっと置いてあったチェス盤に手を伸ばした。
 右が振り返ったとき、芳明はチェスの駒を手でざっと払ったところだった。
「ホウメイ?!」
「あのままだと、気になるんだろ。これでまた最初からできる」
 だからといって、芳明が相手にするわけではない。右にも、それくらいのことはわかった。
「何なんだよ。どうしてこんなこと……!」
「お前が続きを気にするからだろ」
 吐き捨てるような口調が、信じられなかった。右はチェス盤を片付けている芳明の手首を掴んだ。自分とは比べ物にならないほど太くてがっしりとした手首が、びくりと震えた。
「だからって、こんなことする?嫌なら嫌だっていえよ。夏休み中に何があったか知らないけど。話してくれないのはホウメイだし、訊かないからって言うなら、話をする機会さえ与えてくれなかったのもホウメイだ。話したくないなら、それだけでもいいから、言って欲しかった。結局ホウメイは、俺には何も話してくれない」
 違う。そんなことを言いたいわけじゃない。そうじゃないのに。
「話せないことだってある」
「そうだけど。ホウメイは、いつだって俺には何も言わないだろ。そりゃあ、相談されたって、俺は役立たずだろうけど」
「別にそんなことは言ってないだろ」
 盛大なため息が、芳明の口から零れた。右は自分の耳の先が熱くなっているのがわかった。
「それでも、俺は少しでもホウメイに寛いで欲しかった。それだけだよっ。それなのに、閉じ篭って……」
「いい加減にしろ!放っておいて欲しいときだってあるんだよ!」
「だからってずっと一人で篭るわけ?心配もさせてくれないわけ?ただの話もしてくれない?」
 そうじゃない。最近は険しい顔ばかりのホウメイに、ただ少しでも休んで欲しかった。それだけなのに、右は膨れ上がった気持ちを抑えられなかった。
「チェスだって、嫌ならもっと後にすれば良かっただろ。何もぐちゃぐちゃにすることなんてない!」
 右の怒鳴り声が部屋に響いた。ぎっと睨む目を芳明も睨み返す。だが、すぐにすっと目を逸らした芳明は、右の手を力任せに振り払って、玄関に向かった。
 互いに同じくらい、きつく唇を噛み締めていた。


「ふーん。喧嘩したんだ」
 右が真剣に悩んでいるというのに、にやりと笑ったのは新だった。右は芝生に伸ばした足の靴先を見つめて、小さく息を吐いた。目の前のグランドでは、昼休みの腹ごなしにサッカーが繰り広げられている。
 あんな風に怒鳴ったのなんて、何年ぶりだろう。心臓が弱かった姉がいたから、いつも極力穏やかにしていた。
 喧嘩がしたかったわけではない。話をしたかった。でも、芳明はあの後、大きな音を立ててドアを開けると出て行ってしまった。
 そのことを言うと、新はヒューと口笛を吹いた。さすがに右も、むっとしてその横顔を睨んだ。
「はは。ごめんごめん。でも、ちょっと見たかったなあと思って。二人の喧嘩」
 周りが呆れるほどに仲の良い二人だ。最初に少しいざこざがあった後、二人は喧嘩と言う喧嘩をしていない。全く知らなかった二人が同じ生活空間で過ごすと言うのに、言い合いもしたことがない方がおかしいと新は思う。全く干渉し合わない、ということはある。だが、二人は今や部活まで一緒で、夏休み中も仲良く過ごしていたはずだ。途中までは。
 新は芳明の身に起きたことを詳しくは知らない。家のごたごたで、総総代が出てきて関係したことは知っている。だが、それ以上のことは調べる気もなかった。ここにいる限り、誰もがただの同級生であり、友人である。
「俺なんか、結構しょっちゅうやりあうけどね。俺のコーヒー飲んだーとか、シャワーの順番とか、くだらないことばっかりだけど」
 それも、今はふざけていることの方が大きい。
 それを考えれば、今回の二人の言い合いなど喧嘩とは言わない。だが、右が怒鳴ったということも、芳明がいつもの態度からは想像できないほど勝手に振舞ったのも、面白いと思った。お互い、気持ちを隠しすぎていたと思う。
「喧嘩ぐらい、いいと思うよ?もっとしろよ」
 新のその言いように、右は「えー」と唇を突き出して不満そうな顔をする。
 まったく表情豊かになったものだ。にこにこばかりしていた頃に比べれば、ずっと生き生きしている。
 あとは二人がさっさとくっつけば、全てが上手くいく気がするんだけどなあ、と新は空を見上げた。夏の終わりの空は、ひどく青かった。


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