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あふれ出る言葉など何の役にも立たない

21
 慣れない喧嘩に落ち込んだのは芳明も一緒で、基一と圭一の部屋で鬱陶しがられていた。
「人の喧嘩の仲裁してるくせに、自分の喧嘩の始末はつけられないってか」
 基一のため息に、芳明は何も言わない。ソファーの下に坐って、本来坐るべき場所に頭を乗せてじっと天上を見ている。
 喧嘩をした。芳明はそれしか言わなかった。
「そもそもウチは避難所か」
「ほんとだよ。しかも309号室限定」
 毎回、千野フロア長に「すみません」と頭を下げるのは何故か自分たちで、基一も圭一も苦笑するしかない。
 呆れた感の強い二人の会話を聞きながら、謝るべきなのはわかっている、と芳明は声に出さずに呟いた。だが、右との関係を今後どうするべきか、悩んでいた。
 結局は全てをなくす――。そう気付いてから、芳明は右とこれ以上近くなることが怖くなった。
 少しずつ色々な表情を見せるようになった右を愛しいと思った。
 おかえり、と泣きそうな顔をされたとき、抱き締めたいと思った。
 そう言う気持ちが、どんどん膨らむのが怖かった。欲しくて、堪らなくなるのが。
 はあっとため息を吐いた芳明の額を、ぺちぺちと基一の左手が叩く。そのまま覗き込まれて、「これで何日目?」と言われた。
「五日目?あれ?一週間は経ってるか」
 逃げ隠れるのはここ428号室だけではない。誠吾のところに行くこともあるが、誠吾には露骨に心配そうな顔をされるので、逃げ場所として最高なのはこの二人のところだ。
「で?いつまでこんなことしてるつもり?」
「……居心地良いんだよな、ここ」
「誉め言葉には聞こえないな」
「ああ、聞こえないよなー。だいたいさ、つい最近まで新婚さん顔負けの仲の良さだったのに、喧嘩したから出てくるってどうよ?夫婦間の問題は、二人が話し合わないと解決しないよ?」
「基一。そういう例えはやめろ」
「人のところに来て鬱陶しい顔して、むすっと黙っている人に言われたくないなー。なあ、圭一?」
「ほんと。ウチの一番上の姉貴が旦那と喧嘩しちゃあ戻ってくるけど、そういうときの顔そっくり」
 二人掛かりで責められて、さすがに芳明もばつの悪い顔をした。
「迷惑かけて、悪いとは思ってる。でも、俺、あんまり逃げられるところないんだよ」
「逃げてるってわかってるのか」
「まあ、多少の自覚は」
 あれから何度か、右は話をしようと言う姿勢を見せていた。だが、それを避けているのは芳明だ。休み時間などは、総代の仕事を言い訳に、とことん右から遠ざかっている。
 基一と圭一は顔を見合わせて、肩を竦めた。
「わかった。自覚ありならまあ、いいとしよう。だけど、ちゃんと逃げ回る理由を言え。喧嘩って、何が原因で?」
 芳明はしばらく渋ったように口を開かなかった。だが、右隣に基一の、正面からは圭一の視線を感じて、諦めて顔を上げた。
「原因と言うなら、俺が右を避けてたことだろうな」
「はあ?今の前のか?」
 基一の言葉に、芳明は頷いた。
「部屋の中、もともと俺たちは仕切ってたから。まあ、そこに閉じ篭ってたら簡単というか」
「同じ部屋にいてそれかよ。きついって」
 圭一に言われて、芳明も返す言葉がない。わかっている。自分も追い詰められていたが、右も十分息苦しかったに違いない。
「で?なんで避けてたんだよ」
 できればそこは言いたくない。芳明はゆるく首を振って、口を噤んだ。
 基一と圭一はちらりと視線を交わした。本人達が思っているほど、周りは鈍くない。というより、二人が周りに関心がなさすぎるのだろう。一体自分たちがどんな風に見られているのか、知らないのだ。
「右が何かした?」
 芳明はまた、首を横に振った。基一が横で、ため息を吐く。
「ホウメイさー。俺が言わなくてもわかってると思うけど。右の言動が原因じゃないところで避けられたら、本人はわけわからなくて傷つくだけだぞ?その原因が思い当たるならまだしも、俺たちだってわかんないし」
「原因は……俺自身の問題だけど」
「夏休みに家に帰ったのが関係あり?」
 芳明がまた、口を閉じた。
「あー、まあ、家のこととかを訊くのはルール違反だな。悪い」
 基一たちは、いつでもそうやって芳明の領域を尊重してくれる。それは右も同じだ。実家から電話が何度も掛かってきたことは知っていたはずだし、転校の噂まで流れたのだ。だが、その細かい理由を訊いてくることはなかった。
 三年。ふと芳明が呟いて、基一も圭一もその顔を見た。芳明は片膝を抱えて、床をじっと見ていた。
「ここにいる間だけの自由だ。卒業したら、俺にはもう自由はないと思う。じゃなかったら、全部を捨てるしかない。どうせおまえらのことだから、木田の家のことは知ってるんだろう?」
「まあ、基本情報ぐらいは。で、だからってどうして右を避けるわけ?」
 これ以上、大切な存在になって欲しくないから。
 三年後に失うときに、あまりに辛いような、そんな存在になって欲しくないから。
 想いは溢れても、芳明は言葉にするつもりはなかった。
「あのさー、ホウメイ。俺たちをちょっとみくびってない?ほれ、白状しろ。三年後の将来を考えて、右には手が出せないって」
 その言葉に、芳明は顔を上げて、少し呆然とした表情を基一に向けた。
「本気で気付いてないとか思ってた?ほんっと、ホウメイって自分の周りのことには疎いよな」
 圭一まで大仰なため息を吐いていて、芳明はくしゃりと髪を掴んだ。
「右も愛されてるよなー。今時、付き合っても一年ももたない奴らだっているのに、三年だぜ?そんな先のことまで考えられてるなんてさ。それって、付き合ったら、三年後も一緒にいるって思ってるってことだろ?そりゃあ、別れること考えて付き合うのもなんだか、ってところだけど。三年も後のこと考えるのもなー」
 にやにやと言われて、明確な言葉を言ったわけではないのに、芳明はひどく恥かしくなった。まるで気持ちを暴露してしまったようだった。額を立てた片膝にこつりとぶつけて、息を吐く。耳の先が、熱かった。
「付き合うとか、そう言うんじゃない。ただ、俺の中で右の存在が大きくなるのが、怖かった。それだけだよ。そんな、右の気持ちを無視した話、するなよ」
 ぼそぼそと芳明が言う。基一と圭一は、思い切り呆れて、互いに顔を見合わせた。
「右の気持ちを無視って……誰のことだよ。少なくとも、おまえに言われたくないぞ、ホウメイ」
「それ、まじで言ってんの?」
 芳明は顔を上げない。基一は、あまりのことにお手上げのポーズをしてみせた。圭一もまた、ため息を吐きながら首を振ったのだった。


 逃げられた。
 右にしてみれば、自分の心情を表すにはそれが最も適した言葉だった。クラスも、部活も、さらには寮の部屋まで一緒だというのに、芳明が捕まらない。
 とにかく話がしたかった。結局、芳明は何も言わない。何に苛ついているのか、なぜ自分を避けるのか。
 欲張らない、と決めていた。クラスメイトでルームメイトであるという幸運だけで、十分だと思っていた。でも、それさえも許されないのなら。
 クラスで基一に気安く肩を叩かれていたり、部活で他の生徒と笑い合っていたりする芳明を思い出して、右は大きくため息をついた。芳明がパーテーションにしている本棚に寄りかかって、こくりと紅茶を飲む。砂糖がちゃんと溶けていなかったのか、底の方が甘かった。
 時計の針はもうすぐ深夜になろうとしていた。十二時以降の外出は、同じ寮内でも基本的に禁止されている。芳明も、そろそろ帰ってくるはずだった。
 まったくどれだけ待たせるんだろう。右は自分が勝手に待っていることなど棚に上げて、むっとした表情でずるずると坐り込んだ。
 いつもいつも、芳明が帰ってくるまで、右も眠れない。転校はしない、と本人から聞いたというのに、どうも信用していない。そんな自分が馬鹿らしかったが、不安と言うのは勝手に沸いてくるものだ。
 再び紅茶を飲んだところで、ドアが開いた音がした。極力音を立てないようにしているのは、うしろめたさか純粋な気遣いか。両方かな、と右は考えながら立ち上がった。
「右?」
 本棚とクローゼットの間は人がようやくすれ違えるほどの間しか空いていない。右はそのクローゼットに腕組みをして寄りかかって、本棚に向けて片足を伸ばしていた。これでは、芳明は中に入れない。
「どいて貰えないか」
「質問に答えてくれたら」
 芳明がため息を吐いて、髪をくしゃりと掴んだ。
「実家のこととか、転校の話がどうして出たのかとか、色々気になることはあるけど。それは話してもらえなくても仕方ないと思ってる。でも、なんで俺を避けるのか、それくらい訊いてもいいだろ?」
 芳明が何か言う前にと、右はそう吐き出した。すとんと、上げていた右足が地面につく。
「――悪い」
 しばらく待った末の言葉は、右の納得のいくものでは到底なかった。右はすっと芳明の前に立って、じっとその顔を見た。でも、芳明は軽く俯いて、右を見ようとはしなかった。
「答えになってないよ、ホウメイ。どうして俺を避けるんだよ?鬱陶しい?嫌なところがあった?」
「違う。そうじゃない。俺が悪いんだ。右は、何も悪くない」
 こんなときだというのに、久しぶりに呼ばれた名の響きに泣きたくなる。右はぐっと唇を噛んだ。
「それじゃあ、なんで?同じクラスなのに、同室なのに、ずっと避けられつづけなきゃなんないのか?傍にいるのも、駄目なのか?」
 ただ、隣にいること。
 それさえも駄目だと言われたら、どうしたらいいのだろう。
 今更、出会わなかったことになど、出来ないのに。
「ずるいよ、ホウメイ。自分が悪いなんて、ずるい。それじゃあ俺はどうにもできない。嘘でも俺が嫌いだって言ってくれた方がいい」
 右が芳明のTシャツの胸元を掴んだ。それでも芳明は、顔を上げなかった。
「嫌いだって、言えばいい。避けてる理由が言えないなら、そう言えばいい」
 シャツを握った手が、震えていた。声も濡れていて、芳明は顔をゆっくりと上げた。
 涙は、零れていなかった。でも、それは艶やかに、濡れていた。
 きっと自分を睨んだ、その目は。
 ――抱きたい。抱き締めたい。
 口付けたい。
 突き上げるような衝動に、芳明は右の手首を掴んで、本棚に押し付けた。ばらばらと本が落ちたが、気にしなかった。そのまま、唇を右のそれに押し付ける。噛み付かんばかりの、キスだった。
「ん……んんっ」
 腕の下で右が暴れた。足を踏まれて、ようやく芳明は身体を離した。でも、手首はきつく掴んだままだ。
「なん……で」
「嫌いだったら良かった」
「なんだよ、それ」
「違うからっ。だから、避けるしかなかったんだろ」
 下を向いて怒鳴る芳明を、右は呆然と見た。そんな理由、わからないと思う。
「わけわかんない……どういうこと?」
 芳明は荒い息を何度も吐いて、目を閉じていた。つい先刻の、右の柔らかい唇の感触が頭の中で駆け回る。
 止まらなかった。どうしても、我慢できなかった。
「悪い……最悪だ俺」
 するりと、手首が解放されていく。ゆっくりと、体温が離れていく。右は咄嗟に、その両腕を掴んだ。
「ちょっと待ってよ。さっきからホウメイ謝ってばっかりで、わからない。なあ、ちゃんと言って。なんで、キスなんて――」
 ゆっくりと、目が合った。途端に、わかった気がした。お互いの気持ちが、少しもずれていないことが。
「俺、嫌だなんて言ってない。それどころか嬉しくて泣きそう。それなのに、謝られたら、どうしたらいいんだよ」
 震える声で右が言う。溢れる涙は、今にも零れ落ちそうだった。
「右……ごめん」
「だから、なんで謝るんだよ」
「先の保証ができない。たった三年後の保証ができない」
 芳明はそっと、右の身体を抱き締めた。右の腕が、そのまま背中に回る。こつりと、額が肩にぶつかった。
 そんなことを言っても、もう後戻りはできないと芳明は思っていた。これほど近くにいて、避けつづけることなど、出来るはずがない。
「三年って長いよ、ホウメイ。そのわからない三年後のために、俺はホウメイを諦めないと駄目なのか?三年の間、ずっと見てるだけ?」
「右――」
「三年後の保証なんて、誰もできないよ。その先だって、どうなるかなんてわからない。でも俺は、ホウメイと一緒にいたい。その努力を、していきたい」
 自分より細い身体をぎゅっと抱き締めて、芳明は目を閉じた。
 また、同じことを繰り返した。
 バスケを諦めたときと、同じ。あがくことをしない、自分。最初から諦めて、自分の気持ちを誤魔化して。
 成長ないな、と芳明は泣きそうな顔で苦笑した。
「ホウメイ……?」
 腕が緩んで、右は顔を上げた。間近に、芳明の優しい目があった。それは、いつもの芳明だ。苛々も余裕のなさもなくなった、あの温かい、視線。
「忘れてた。大事なのは、自分の気持ちだって」
 右が好きだ。
 それは、囁きに近かった。でも、抱き合っている二人には、それで十分だった。
「俺も好きだよ。ホウメイのことが、ずっとずっと好きだった」
 お互いの顔を両手で包む。
 右が、鮮やかな笑顔をした。その笑顔を見られるのは、とても幸せだと思う。つられて、芳明も微笑んだ。
 静かで冷たかった室内が、暖かくなっていく気がした。とても心地よかった、あの空間が蘇っていく。
 ゆっくり、二人の顔が近づいた。こつりと額がぶつかって――。
「ホウメイ!右!おいっ。大丈夫か?!」
 どんどんどんっ、とドアが叩かれたのは、二人の唇が触れ合う瞬間だった。続けて、インターホンが鳴る。二人ともぴしりと、固まってしまった。
「新だよな、この声」
「うん。そうだと思う」
 額はぶつけたまま、二人はため息を吐き出した。そう言えば怒鳴ったな、とか、本が結構な音を立てて落ちていたなとか、今になって思い出す。
「あのやろう……タイミング悪すぎだろう!」
 芳明が怒鳴りながら、ドアに向かった。「おーい、平気かー?」と、新の声がする。
 芳明の苦虫を潰したような顔を見送った右は、堪えきれずに噴き出した。あんな顔、見たことがない。
「えーなんで?すごい音がしたって言うから、心配で見に来たんじゃないか!」
「あーそうだろうよ。親衛隊長としては、立派だよ!」
「なんだよー。ホウメイ、超機嫌悪くない?」
「悪くならないほうがおかしい!」
 芳明のあからさまな八つ当たりに、右の笑いは止まらなかった。息が苦しくなるくらい、大笑いをした。
「うわ。右が馬鹿笑いしてる……俺初めて見たかも。何したんだよ、ホウメイ」
「……何もしてないからだよ!」
「はあ?ちょっと右、ホウメイなんでこんな怒ってんの?」
 右は手をひらひらさせて、笑い続けていた。可笑しくて、止まらなかった。
 こんなに笑ったのは、もの凄く久しぶりだ。一体いつ以来だろう。
 何しろあまりに可笑しくて――そして幸せで。
 やっぱり久しぶりに零れた涙を、右は掌で拭った。


(了)

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